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肥後国の式内社を中心に巡る1 ~ 疋野神社 [ツーリング]


 與止日女神社をAM8:30頃出発、国道263、264号線で佐賀市街を抜け、国道208号線で疋野神社の鎮座する玉名市へ向かう。玉名市域に入ってすぐの国道208号玉名バイパスに入り、県道165号線を南下した。

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 玉名神社の表参道鳥居。白く背高が印象的。万が一の緊急車両の出入りを考えてるのかなと思った次第。

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 参道を進んだ先の二の鳥居。

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 更に進んで三の鳥居。

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 三の鳥居の先までは車で上がることができ、駐車スペースにもなっている。

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 疋野神社の拝殿。

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 疋野神社の拝殿と本殿。

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 疋野神社の本殿。

 


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ニッポン御朱印の旅0020 宇治上神社 2010-04-29 [御朱印の旅]


 
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鎮座地 京都府宇治市宇治山田1 [地図]
祭神 菟道稚郎子命、応神天皇、仁徳天皇
社格等 式内社(小)、府社
拝観料 不要
駐車場 なし

 この日は自転車でよく周回するルートの一つ、自宅→国道307→宇治田原→宇治→伏見→八幡→自宅で向かった時のもの。第二京阪道路開通以前、国道307号線まで府道をいくつか通っていたが、いまは第二京阪道の自転車道でかなり時間短縮が可能になった。
 宇治田原を経由して、天ヶ瀬ダムで小休止してから宇治観光の中心地へ向かい、宇治上神社周辺の神社数社もあわせて参拝した。
 祝日であったため、平等院周辺は大変な人出で、宇治の観光ポテンシャルも見くびるものではないなと感じた。



 宇治上神社の創建年代は不詳であるが、延喜式神名帳に「宇治神社二座」とあり、宇治神社と共に比定されている。宇治神社が下社・若宮と称され、それに対して宇治上神社を上社・本宮と称する。また離宮明神・離宮八幡などとも呼ばれ、それはこの地に応神天皇の離宮桐原日桁宮があり、後にその皇子菟道稚郎子が居住したからとか、平安時代前期、陽成天皇の離宮があったからなど、諸説ある。
 宇治神社と宇治上神社の関係は賀茂社のような祖神と子神の関係が基礎にあった上で、それぞれ独自発展したものと考える説がある。もし賀茂社の祭神の配置をそのまま当てはめれば、宇治神社二座の元の祭神は宇治上神社が菟道稚郎子、宇治神社が応神天皇での二座ということになる。あるいは宇治神社が若宮と称されることから、祭神は逆であろうか。
 宇治上神社の本殿三棟が康平3年(1060)頃の建立であることが確認され、現存する最古の神社建築であることから、1994年に世界遺産古都京都の文化財の一つになっている。

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 宇治神社を過ぎると程なく宇治上神社の鳥居が見えてくる。鳥居脇の社号標には「世界文化遺産」と添え書きされている。

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 宇治上神社は拝殿と本殿が国宝指定を受けている。こちらは拝殿で鎌倉時代前期の宇治離宮を移築したものと伝えられる。

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 本殿三棟は覆屋で保護されている。本殿の年輪年代測定調査によって、造営は1060年頃であるとされ、現存最古の神社建築であることがわかっている。また永承7年(1052)造営の平等院から見て、当社は鬼門の方角にあることから鎮守社とされた。双方の近い造営年から、その関連が濃厚である。本殿右側の春日社は改修工事中であった。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より宇治上神社の項。
 京都府字治市宇治山田。旧村社。
 応神天皇・菟道稚郎子命・仁徳天皇を祀る。宇治神社を下社・若宮というに対して本神社を上社・本宮と称する。また離宮明神・離宮八幡などとも呼んだ。『延喜式』に記載の「宇治神社二座」(宇治神社とともに)をこれに当てている。
 本殿(桁行五間・梁間三間・一重・流造・檜皮葺・内殿三社・各一間社流造)は、現存する神社建築の中では最古の建造物とされて国宝指定。また平安期の本殿(国宝)の第一殿に童形像二面、第三殿の随身像二面が描かれた扉絵(板絵着色)は重文取扱。このほか宇治離宮の遺構と伝承する拝殿(桁行六間・梁間三間・一重・切妻造・両妻一間通り庇付、向拝一間・檜皮葦、付桟唐戸四枚・蟇股一箇)も本殿と同じく国宝指定。また、境内社の春日神社社殿(一間杜流造・檜皮葺)一棟は、拝殿とともに鎌倉期の建築とされて重文指定をうけている。

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Google Chrome のメニュー行間を元に戻す [ひとりごと]


 Google Chrome Ver26にアップしたらプルダウンのメニュー行間が広がり、使いにくくなったので、元の表示に戻してみました。

 起動オプションに --disable-new-menu-style を付与

 これで元に戻りました。

追記
・Chrome 28で、このパラメータが無効になってしまいました。
・Chrome 29では何の変更もなし。使いにくいままです。
・Chrome 30で、希望に近い状態を再現することが出来るようになりました。
 chrome://flagsで隠し設定を開き、タッチ操作に最適化された UI Windowsを無効にする。
 これで項目が選択された時に反転はしないが、行間は狭まります。我慢して使えます。
・Chrome 31にアップしたら希望に近い状態が再現されていました。ヨカッタヨカッタ。
 設定はChrome 30の時のものを継承します。
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ニッポン御朱印の旅0019 高津宮 2010-04-08 [御朱印の旅]



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鎮座地 大阪市中央区高津1丁目1番29号 [地図]
祭神 仁徳天皇
社格等 府社、別表神社、境内社に式内社(小)の論社
拝観料 不要
駐車場 なし
家頁 http://www.kouzu.or.jp/

 参拝は4月8日、生国魂神社の後、高津宮に向かった。谷町筋を北上して谷町9丁目交差点の次の角を西進すると高津宮の鳥居がある。



 高津宮も先の生国魂神社と同様、秀吉の大阪築城時に遷座した神社である。
 主祭神の仁徳天皇は、先代の応神天皇の大隅宮 - 推定地として大阪市東淀川区大隅神社のあたり - からその対岸の難波高津宮に遷都、現在の大阪開発の礎である。宮殿の高台から平野を眺めたところ、竈から煮炊きの煙の無いことから民衆の窮乏を察して租税を免除し、その間宮殿の茅葺きを新たに行わなかったという著名な記紀の話は、この難波高津宮での一件であるとされる。

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 千日前通りの一つ北側の通り沿いに高津宮の境内入口の鳥居が建つ。境内は高津公園になっており、参拝当日は花見客がちらほらいた。

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 高津宮拝殿、高津宮は貞観8年(866)、清和天皇の勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。本殿は見通せなかったのか、画像がなかった。

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 大阪築城時、高津宮の遷地として選ばれたのが比売古曽神社である。現在は摂社であり、当社の地主神として祀られている。
 比売古曽神社は式内社であり、大阪市東成区の比売許曽神社と共に、その論社の一つとされる。

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 当社絵馬殿、桜が満開であった。説明板によれば、仁徳帝が宮の高殿から平野を眺め、煮炊きの煙の無いこと云々、の逸話の高殿をイメージした建物であるという。
 日差しの強い日の参拝時には、ここでの休憩が涼しくて気持ちいい。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より高津宮の項。
 大阪市中央区高津町。旧府社(現、別表神社)。
 仁徳天皇を主神とし、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・葦姫皇后・履仲天皇を祀る。
 当社は、仁徳天皇の遺徳をしのんで清和天皇貞観8年(866)橘朝臣良基が当地に来て創建したと伝えられる。その後村上天皇康保2年(965)崇徳天皇天治元年(1124)等、順次造営がなされたが、正親町天皇天正11年(1583)に豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、現在の社地に奉遷し今日に至っている。当地は延喜式内社比売古曽神社の境内地であったが、この比売古曽神社を地主神として摂社として奉斎したと伝えられている。
 社殿は元和の役に焼失したが、徳川家綱によって復旧し現代に至ったが、昭和20年3月惜くも戦災により焼失した。後同36年に再建復興した。例祭7月18日。2月5日に献梅祭が行われる。社宝に越前守助広銘の刀剣がある。

 
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ニッポン御朱印の旅0018 生国魂神社 2010-04-08 [御朱印の旅]



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鎮座地 大阪府大阪市天王寺区生玉町13-9 [地図]
祭神 生島大神、足島大神
社格等 式内社(名神大)、官幣大社、別表神社
拝観料 不要
駐車場 有り(無料)

 前日の大鳥神社に続いて、翌日も自転車で出かけた。大阪市内で御朱印を頂戴できる神社を回ろうと生国魂神社と高津宮の二社を巡った。
 前日は4月にしてはとても寒い一日であったが、この日は一転して好天で、少し自転車を漕ぐとすぐ汗が噴き出し、春の陽気全開であった。



 生国魂神社は神武天皇の東征の折り、九州より難波津に到着した際、上町台地の北端、現在の大阪城付近(のちの石山碕)に、生島大神・足島大神を祀ったことが起源とされる。日本書紀には孝徳天皇の時代(7世紀中期)に「生国魂神社」と記されており、「延喜式」にも「難波坐生国咲国魂神社」ニ座と記されている。天皇即位の翌年に執りおこなわれていた国家の祭祀(八十島祭)の社として知られている。
 上述している通り、元は大阪城付近に鎮座していたが、豊臣秀吉の大阪築城の際、現在の鎮座地に遷された。

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 谷町筋から西に伸びる参道の途中、鳥居前の参道には骨董市が立っていた。快晴で客足も上々のようであった。

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 生国魂神社の境内入口の大鳥居。「いくたまさん」と呼ばれ、大阪の総鎮守として府民に親しまれている。
桜満開の快晴の日で、とても気持ちよかった。

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 生国魂神社拝殿、後方の本殿は「生国魂造」と呼ばれ、当社独特の建築様式である。
 画像で見えているのは流造りに千鳥、唐の複合破風が付いているが、これは上層部のもので、下にもう一層入母屋造りに千鳥破風を持っている、豪壮な本殿である。

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 本殿の北側に多くの摂末社が鎮座、その中で大坂城守護のため特に北向に建てられた城方向八幡宮、鍛冶の神として崇敬されている鞴神社、建築業の祖神の家造祖神社、浄瑠璃関係者を祀る浄瑠璃神社など四社が並んでいる。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より生国魂神社の項。
 大阪市天王寺区生玉町。生玉神社とも称する。旧宮幣大社(現、別表神社)。
 祭神は生島神・足島神、相殿に大物主神を祀る。社伝によれば神武天皇が九州より難波津に到着の砌、石山碕(現在の大坂城附近)に生島神・足島神を祀ったのが当社鎮祭の初めである。その後、生島の御巫の祭る神として神祗官西院にも祀られ、歴代天皇即位の際に行われた八十島祭は、この両神を祀ったものである。
 『新抄格勅符抄』に大同元年(806)二戸の神封をうけ、『三代実録』に貞観元年(859)従四位下の神階昇叙と風雨祈願の記事がみえる。『延喜式』に「難波坐生国咲国魂神社」「難波大社」とあるのは、当社のことで名神大社に列し、祈年・月次・相嘗・新嘗の案上宮幣、祈雨奉幣に預かった。
 元亀年間(1570-73)織田信長の石山攻めの際、隣接の本願寺とともに兵火に遭い災上したが直ちに再興され、天正11年(1583)、豊臣秀吉が大坂築城に当り現在地に奉遷された。同13年秀吉は300石を寄せ、秀頼によって安堵され、慶長11年(1606)片桐且元奉行として社殿が造営された。元和元年(1615)大坂夏の陣の際に災上したが、徳川秀忠が復興し、同5年300石の朱印地を寄せた。
 社殿は生国魂造りと称する他に類例をみない建築様式で、現在の社殿は台風により倒壊したため、昭和31年鉄筋コンクリートで再建したものである。境内社に大坂城守護のため特に北向に建てられた北向八幡宮、鍛冶の神として崇敬されている鞴神社、建築業の祖神の家造祖神社、浄瑠璃関係者を祀る浄瑠璃神社などがある。
 例祭は9月9日で、その他1月7日=若莱卯杖祭、1月13日=御弓神事、1月15日=左義長神事、5月5日=走馬神事、7月11、12日=夏祭、 10月14、15日=秋祭、11月12日=鎮火祭などの祭典があり、8月11、12日タ刻の薪能は著名である。




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