SSブログ

豊前国の式内社と宇佐神宮行幸会八社を巡る6 ~小山田神社、百体神社、妻垣神社 [ツーリング]



 国道10号線沿いの鷹居神社鳥居を後にしたのが14:00頃、雨が降ったりやんだりの天気。合羽を着ているためフットワークが悪い。
 次に向かうのは小山田神社で国道10号線を東進、県道661号線を南下する。事前に調べてプリントアウトした地図の縮尺が小さすぎて迷ってしまい、なかなか着くことが出来なかった。
 地図につけた印を中心にぐるぐる走り、バイクから降りて歩いてもゴルフの打ちっ放しにたどりついてしまい断念。そうしている内に県道661号線の東側の比較的大きめの道から西に延びる道を見つけ、社号標など無かったので、とりあえず行ってみると拝殿と本殿三棟が見つかった。探索してみると拝殿に小山田神社の社殿建築に関わる棟札を見つけたので、確信を持って参拝した。参考に[地図]を載せておく。この地図には小山田神社が二つあるが、西側のものには行っていない。というより見つけられなかったのだが・・・。

R0010870_r.jpg
 小山田神社の境内への階段。裏参道から境内に入ってみると、別の方向へ下る階段を見つけた。それを下っていくとここにたどり着いた。こちらが表参道のようである。画像左にある碑には享保15年の銘があった。

R0010873_r.jpg
 境内すぐ手前の鳥居。

R0010874_r.jpg
 この鳥居の扁額には「貴布祢」とあった。北宇佐か小向野に貴布祢社があって、それを合祀した時に移したものだろうか。

R0010875_r.jpg
 小山田神社の拝殿。境内はしごくあっさりとしたもの。

R0010877_r.jpg
 拝殿の背後に本殿と境内社が二棟。宇佐神宮行幸会八社の一社。祭神は八幡大神で、高龗神、闇龗神を配祀する。本殿両側の社殿にそれぞれ祀られているのだろうか。また小石祠もいくつかある。
 養老4年(720)日向大隅に起きた隼人の反乱では、宇佐は朝廷側の拠点で、小山田社から隼人征伐の軍勢が出発したという。
 創建は霊亀2年(716)、鷹居瀬社に祀られた応神八幡の神託によって、大神朝臣諸男、辛嶋勝波豆米によって造営、応神八幡神は小山田社に遷り、その後は当社小山田社から小椋山(宇佐神宮)に遷座する。
 
 裏参道から戻ってみると、道の東側に北を向いて「小山田神社→」という看板を見つけた。周囲を時計の反対回りにぐるぐるしていたので気づかなかったのだ。トホホ。

 次に百体神社へ向かう。県道661号線を北に戻り、国道10号線を越えて勅使道に出る。勅使道を西に行ってすぐに百体神社が鎮座している。

R0010883_r.jpg
 宇佐神宮呉橋へと続く勅使道沿いに建つ隼人の霊を祀る百体神社の鳥居。

R0010886_r.jpg
 鳥居扁額には百體殿とある。

R0010887_r.jpg
 百体神社の拝殿。

R0010888_r.jpg
 百体神社の本殿覆屋。

R0010891_r.jpg
 流造りの本殿は朱塗りが侘びた感じになっていて良い感じ。
 養老4年(720)に起きた隼人の反乱では多くの隼人の命を奪ったため、それに報いるようにとの託宣によって、宇佐神宮の放生会が始まり、それと併せて隼人の霊を祀る百体神社が創建された。

R0010885_r.jpg
 たまに現れる我が愛車と、百体神社前から呉橋に延びる勅使道。昭和初期あたりまではこちらが表参道で、旅館や飲食店などが軒を連ね大いに賑わっていたという。

 百体神社の参拝を終えると15:00少し前になっていた。この後宇佐神宮に向かったのだが、先に妻垣神社をアップして、宇佐神宮は本稿最後に回すことにする。

 宇佐神宮の参拝を終えた時間が17:00。バイクに戻ってくると、これまではぐずっていた空も我慢できなってきた感じがする程の雨が降り始めた。時間もあって大元神社(御許山)は完全にあきらめて妻垣神社へ向かう。
 国道10号線を西進して、国道387号線を南下、県道42号線で旧安心院町域に入る。国道500号線から県道50号線を南下、50号線の東、妻垣公民館のある道沿いに妻垣神社の鳥居が建つ。

R0011001_r.jpg
 50号線の東、妻垣公民館のある道沿いに建っている妻垣神社の鳥居。17:30頃に到着した。脇の案内看板には「古跡 足一騰宮」とあり、神武東征神話の伝承地とされている。脇の道から境内まで登ることが出来るが、本日最後の訪問地で後は宿に向かうだけなので、歩いて登ることにした。

R0011007_r.jpg
 東向きに始まった石階段の参道は途中で南に向きを変える。その先に立つ二の鳥居。扁額には八幡宮とある。

R0011008_r.jpg
 境内入口の神門。境内まで時間がかかることも覚悟したが、そんなにかからなかった 笑。

R0011019_r.jpg
 妻垣神社の拝殿。時間のせいか、一の鳥居から拝殿まで全く人の気配がなかった。本日最後は神妙に参拝を終えた。

R0011015_r.jpg
 妻垣神社の本殿。神門から本殿まで朱で統一されていて、シャア専用だな(不謹慎は平伏いたします)と思った。
 宇佐神宮行幸会八社の一社で、都麻垣社や爪掻社とも称せられた。当社ホームぺージの由緒によれば、社殿の創建は天平神護元年(765)、宇佐宮に坐す八幡大神から勅使石川豊成に共鑰山(妻垣山)に社殿を設け祀るようとの神託を下し、社殿を造営、比咩大神・八幡大神を祀ったという。
 境内の由緒書によれば当社の比咩大神は玉依姫命となっていて、それが主祭神であり、他の八幡社とは少し趣が異っている。足一騰宮の伝承地故であろうか。
 しかし宇佐神宮の社殿配置は比咩大神がどうしても主祭神に見えてしまう。八幡社の裏ボスはやはり比咩大神なのであろうか。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より宇佐神宮行幸会八社の項。
 宇佐神宮行幸会とは宇佐神宮の神輿を奉じ、同宮と関係深い八カ社を4年もしくは6年ごとに巡幸する神事のことである。その八社は
▼大根川神社 大分県宇佐市佐野。
▼乙咩神社 大分県宇佐市下乙女。
▼泉神社 大分県宇佐市辛島泉。
▼郡瀬神社 大分県宇佐市樋田。
▼鷹居神社 大分県宇佐市東上田。
▼田笛神社 大分県豊後高田市界
▼妻垣神社 大分県宇佐郡安心院町妻垣大門。
▼小山田神社 大分県字佐市北宇佐
で、宇佐八社ともいい、字佐神宮の境外摂社ともいわれた。
 行幸会は『永弘家文書』の『宇佐宮年中行事注文案』によれば、天平勝宝元年(749)に始まるとし、『八幡宇佐宮託宜集』には神護景雲元年(767)始まるとする。また応永30年(1423)の『字佐宮寺造営並御神事法会御再興日記』には、弘仁8(酉)年(817)に始行し、以来卯・酉年ごとに行幸したとある。薦神社の池の薦を刈って御験とし、神輿に奉じて八力社を巡幸した後、御験は宇佐神宮の上宮に納め、旧御験は下宮に遷し、下宮の御験を奈多宮に遷幸するのが、行事の概略である。
 八幡神が宇佐に出現する以前仁聞(人聞・人母)菩薩として修行した時、このように八社を巡行したと説いている。初めて行った時代は4年ごと、弘仁以後6年ごとであったが、規模の大きい祭事であったから、応永に再興、更に元和2年(1616)再興を見るが再び中絶する。昭和46年自動車による行幸会が再行された。
 巡幸の順序は記録によって多少の相異があるが、昭和の行幸会が3月27日に発輦、一旦田笛社より下宮に還幸、翌28日妻垣社から巡幸した次第によって、上記のように列記した。
 全国に分社の多い八幡神の起源にかかわる重要な神事であるが、巡行中各社における祭事の複雑さとともに、この古神事の意義を解く諸家の諸説も多岐にわたり不明の部分が多い。



nice!(37)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 37

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。