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往馬大社・龍田大社と平群郡の式内社6 ~ 龍田大社(龍田坐天御柱國御柱神社) [ポタリング]



 2012年3月1日のポタリングレポートと併せて、以前(2011年5月24日)にバイクで郡南部の巡拝した分を久度神社で終え、ポタリング最後の龍田大社で平群郡の式内社を締めることにする。

 大阪府柏原市と奈良県王寺町・三郷町を結ぶ線は、生駒山系と金剛山系が大和川の水流によって穿たれ両山系を分断、奈良県と大阪府がほぼフラットに通じている唯一の場所。この谷筋の上流にあたる、大和川右岸域、平群群三郷町立野に龍田大社は鎮座している。式内社龍田坐天御柱國御柱神社二座で二十二社の中七社の一社。

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 龍田大社の境内入口の鳥居。古来より風を司る神を祀る社として崇敬を集める神社である。鳥居前は広い無料駐車場。
 出発は遅かったが、龍田川流域、平群谷を南下して龍田大社に到着したのは15:00頃。王寺町の市街地で例のマクド株主優待券で昼食しようと思っていたが、市街地を通らずに龍田大社に到着してしまった。だが朝の腹痛のおかげで朝食も遅かったため、まだお腹は大丈夫だった。この時間帯になって空は雲に覆われ始めたが、雨を降らす雲ではない。

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 鳥居扁額には龍田本宮とある。斑鳩町龍田に龍田神社があるので、それに対しての本宮である。

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 鳥居は朱塗りで堂々の両部鳥居。鳥居脇に官幣大社龍田神社と刻まれた社号碑。

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 鳥居をくぐると拝殿まで砂利が敷かれた見通しの良い参道。脇は石垣が配されており、右側に社務所、左側は庭園という雰囲気。

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 参道は拝殿前で階段をあがる。

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 龍田大社の拝殿。

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 拝殿に昇殿することが出来たので、そこで参拝する。

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 拝殿の向こうに少し背が低い特徴的な鳥居。祝詞殿の向こうに天御柱大神、国御柱大神を祀る本殿二棟が建つが、見通せるポイントは無い。龍田大社由緒略記によれば、本殿二棟は共に春日造り、祭神にはそれぞれ志那都比古神、志那都比売神の別名を持ち、大気、生気、風力を司る神とある。祝詞殿までの参道の両側に摂末社が立ち並ぶ。

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 左側に摂社二棟、奥から龍田比売命社、龍田比古命社が東面して建つ。

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 右側に末社三棟、奥から天照大御神・住吉大神の相殿社、枚岡神・春日神の相殿社、高望王妃社が西面して建つ。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より龍田大社の項。
 奈良県生駒郡三郷町立野。
 旧官幣大社(現、別表神社)。祭神天御柱命・国御柱命を祀り、摂社に龍田比古龍田比売神社がある。
『延喜式』祝詞に「龍田風神祭祝詞」があり、これによれば崇神天皇のとき、五穀凶作が続いたので、天皇が悩み、夢にこの神が現われお告げがあったので創祀したとあるが、天武紀4年4月10日条に小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遺わして風神を龍田の立野に祀らせた記事がみえる。
 大宝元(701)年神祗令に孟夏、孟秋に広瀬社の大忌祭とともに祀られる例となり、風水の害なきを祈るものである。これは、『延喜式』によって詳細を知られるが、その四時祭上に供料の細目と、勅使の位階、員数等を明記し、「太政官式」・「式部式」にも記載している。更に臨時祭式にも春日、広瀬等とともに社庫の鑰匙については官庫に納め置き、祭に臨んで祭使が使用にあたることを記している。
 天武4年以降毎年広瀬とともに4月7月の祭を記載しており、嘉祥3(850)年従五位上を叙せられたのを初めとして、神階昇叙し貞観元(859)年従三位となる。同年、大和の水分神山ロ神26社とともに風雨を祈るため幣を奉られている。
 天平2(730)年『大和国正税帳』に「龍田神戸稲肆伯参拾束捌把」、『新抄格勅符抄』に「龍田神三戸」とみえ、文禄4(1594)年大和郡山城主増田長盛の「日供米拾弐石」を先規の通りとすること、また慶長7(1602)年片桐且元によって同額を安堵されている。
 延喜の制、名神大社、月次・新嘗の幣に預かる名社で「龍田坐天御柱国御柱神社二座」とみえる。また、永保元(1081)年二二社の一に選ばれた。
 現在、農業・航空機・船舶・航海・漁業等、風に関係する者の信仰が篤い。例祭4月4日。前日に本社から0.5キロにある滝津瀬川で梁を張り魚を取る。それを岩瀬の森の川神に神撰を供え奉告の後、荷桶に入れて本社に担ぎ帰り四日奉献の後、もとの河に放魚する。これを滝祭りという。7月4日風鎮祭。

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 今回の最大目的、二十二社の一社、龍田大社の御朱印。

 以前にバイクで回った平群群南部の式内社と今回の平群群北部ポタリングと合わせて、平群群内の式内社を回ることができた。龍田大社は二十二社の一社だが、前回は御朱印帳を持っていかなかったので、今回のポタリングで再訪した。
 平群谷を龍田川に沿って貫く国道168号線は起伏もなく、大阪市内から20km圏内なので、思っていたよりも短時間で、かつ体力的にも優しく、とてもいいポタリングルートである。また行こう。。
 ちなみにマクド株主優待券は八尾市内国道25号線沿いのマクドで使わせてもらった。これが最後の一枚であったが、今年の3月末にまた届いたので、引き続きお昼の友になりそうである。




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往馬大社・龍田大社と平群郡の式内社5 ~ 龍田神社、神岳神社、久度神社 [ポタリング]



 猪上神社の前に訪れた龍田神社は国道25号線の一本北側を東西に延びる道沿いに鎮座。この道は奈良街道(大阪街道)で、龍田は伊勢や当麻寺へと分岐する要衝であり、この地を中心に商業も大いに栄えたという。

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 龍田神社の境内前を東西に走る街道と鳥居。龍田神社は延喜式内社、龍田比古龍田比女神社二座の比定社。

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 奈良街道に面した龍田神社の鳥居。

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 龍田神社の拝殿。コンクリートで作られたもの。龍田社と書かれた扁額が掲げられている。

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 龍田神社の拝殿をもうひとつ。本殿は左右どちら側からも見ることは出来なかった。彦姫二座の社であるので、その配置を見てみたいと思ったが残念。
 式内社の研究によれば、龍田神社の社殿は五棟あり、他に行者堂があるという。第一殿の祭神は天御柱大神、国御柱大神の荒魂を祀る。これは鎌倉時代に龍田坐天御柱國御柱神社(龍田大社)から二柱を迎えて祀ったもの。これ以降、当社が龍田新宮と称するようになり、龍田比古龍田比女神社は旧称となり、その名が消えたという。
 第一殿の西に龍田比古大神、東に龍田比女大神を祀り、第二殿、第三殿となる。この二社が式社である。
 更に龍田比古社の西に瀧祭大神を祀る第四殿、これまでの四棟は横並びに南面して鎮座する。
 第五殿は猿田彦命を祀り、これは龍田比女社の東側で西面に鎮座する。
 また続けて式内社の研究によると、彦姫二座の式内社の場合、徃馬坐伊古麻都比古神社などに見られるように比古神二座となるが、当社は比古比女二座となっていて、これは徃馬坐伊古麻都比古神社は比古神の巫女神で隣接していたのに対し、龍田比古龍田比女神社は別々に独立していたものであったからとの記述がある。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より龍田神社の項。式内社の研究とは異なる縁起が紹介されている。
奈良県生駒郡斑鳩町龍田。
旧県社。厩戸皇子が法隆寺を建立しようとして龍田明神(龍田大社)の神誨を受け、この地に堂塔を建立し、本宮の分霊を勧請し、平群郡神として祀られた。本宮に対して新宮、または新龍田ともいう。法隆寺から当社に別当坊を置き、例祭には30人の僧侶を供し、龍田三十講ともいわれたという。祭神は大社と同。例祭も同じく4月4日。

というように、龍田神社は元は天御柱大神、国御柱大神を祀る神社として創建され、それは法隆寺の鎮守社という位置づけである。式社選定時代までに龍田比古神、龍田比女神の二座を祀る社に変遷したというもの。
 神仏習合の概念が無い中、親仏である厩戸皇子との関連が濃厚な法隆寺の鎮守社というのはどうなのかなと単純に思ってしまうが、どうなんだろうか。

 龍田神社の前に訪れた神岳神社は大和国の西部を北から流れてきた竜田川が大和川に注ぐ地点、標高100mに満たない小山、三室山の中腹に鎮座。神岳神社は元は社殿を持たず、三室山を神体山として崇めてきた神社である。三室山は古来より神南備山であった。式内社神岳神社の比定社。

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 三室山は饅頭状にこんもりした山で斜面には住宅が立ち並ぶ。三室山を南側から登ると神岳神社の社号碑が建ち、神社へと案内してくれる。

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 神岳神社の境内入口。

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 神岳神社の境内入口の鳥居。

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 神岳神社の拝殿。

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 神岳神社の拝殿の背後に鳥居が建ち、一段高い地に拝殿と比べると真新しい感を受ける春日造りの本殿が建つ。
 祭神は須佐之男命で、牛頭天王社と刻まれた元禄13(1700)年銘の石灯籠があり、江戸期までには現在の祭神になっていたようである。

 神岳神社の前に訪れた久度神社は大和川を近鉄生駒線が渡る鉄橋の北東すぐの辺り、北葛城郡王寺町久度に鎮座する。

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 久度神社の境内入口。石灯籠とその脇に式内久度神社と刻まれた社号碑。式内社久度神社の比定社。
 久度は窖(くど、あな)の意があり、竈の神であるといわれている。

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 境内入口からの参道を進むと鳥居が建つ。その向こうに拝殿が見える。

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 鳥居の扁額には「徳維馨」とある。境内由緒書には記載が無くよくわからない。ググってみると維馨周徳という禅宗の画僧が見つかったが、関連があるのかどうかわからない。

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 久度神社の拝殿。

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 拝殿内陣から。本殿前には神門が配され、瑞垣に囲まれて建つ。

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 本殿は右側からかろうじて見ることが出来たが、形式はわからない。
 祭神は久度神、八幡神、住吉神、春日神。
 境内由緒書によれば、二十二社の一社、京都の平野神社第二座の久度神は当社から遷されたものであるといい、元平野とも言われる。
 しかし久度については、物部氏の支族、久努氏の祖神が祀られていたという説や、久度の語源として泥地を「くで」と呼ぶ地域があり、そこからの変移であるという説もある。なるほど当地は大和川が湾曲し、大水の時には氾濫して泥土が溢れる地であると言える。
 久度神は平野神社への遷座後一旦は失われていたようで、現在の久度神は平野神社から遷されてきたもの(昭和43年)である。ということで、創祠時の久度神と現在の久度神とは異なっている可能性もある。

以下、久度神社の境内由緒書から
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一、御鎮座 
 奈良県北葛城郡王寺町久度
一、御祭神
 久度大神 かまどの神・火の元の神
 八幡大神 寿命、幸運の神
 住吉大神 水運交通の神
 春日大神 子孫繁栄の神
御由緒
久度神社は延喜式内の古社で、その創始の年代は古く奈良朝以前のものであり、第50代桓武天皇の延暦2年には特に官社に列せられ、従五位下という神位を賜ったことが続日本紀に載つています。その後毎年朝廷から幣帛を捧げられ官祭に預かつていましたが、延暦13年の平安遷都に際し、久度の神をはじめ平素から信仰のあつかつた二、三の神々を皇居の近くにうつされて、新しく建てられたのが、京都の平野神社であり、その第二座が久度の神であります。
その後約1200年の間当久度神社は八幡大神等をお祀りし、氏神として時により多少の興廃はありましたが、昭和17年橿原神宮の古殿をもらって拝殿・瑞垣・中門等の造営によつて面目を一新し、また昭和43年4月10日には平野神社からはるばる久度の神をお迎えし、44年4月10日本殿造営完工によって基の神御座である久度の社にお祀り出来ましたことは、この古い由緒とともに郷土の誇りであります。




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往馬大社・龍田大社と平群郡の式内社4 ~ 平群石床神社旧社地、御櫛神社、猪上神社 [ポタリング]



平群石床神社からほぼ南に200mの地に平群石床神社の旧社地があるので、そちらへ向かうことにした。

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 ここへは一見すると、民家への私道と見紛う道を行くので、画像を載せておく。旧社地へは画像の分岐路を左に行く。またこの道を見れば、自動車での訪問は難しいとわかるだろう。

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 平群石床神社旧社地の境内入口。石垣が組まれ、整備されている。

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 平群石床神社旧社地は巨石が露出したまさに磐座信仰の地。ここは陰石が神体として祀られており、往古において、谷を挟んで鎮座する船山神社の陽石と対を為すものであったと考えてみるとおもしろい。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より平群石床神社の項。
奈良県生駒郡平群町井戸の上。
旧村社。祭神、剣刃石床別命。貞観元(859)年従五位上を授けられる。『延喜式』に「平群石床神社大、月次、新嘗」とみえる。越木塚集落の断崖には、高さ6メートル、巾10メートルの巨石があり神体としている。もとは社殿がなく、大正9(1920)年に本殿・拝殿を設け、同13年10月24日現社地に遷座した。境内社に消渇神社というのがあり、婦人の守護神という。

 平群石床神社旧社地の前に訪れた御櫛神社は平群石床神社旧社地の南西約600m、平群町椹原(ふきはら)に鎮座。

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 細い谷筋に営まれている田を見ながら、山際を西に伸びる細い道沿い、集落の西奥に鎮座する。周囲には民家がなく、式社だけがぽつんと建っている。
 この地に式社があるということは西に延びる道は立石越へとつながる古道、椹原道ではないだろうか。立石越は聖徳太子が四天王寺と往来していた道という。

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 切妻造りの門屋をくぐるとすぐに拝殿。境内もこじんまりとした村の鎮守様の佇まい。

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 拝殿の脇に延喜式内御櫛神社と刻まれた社号碑。

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 拝殿の裏側に回ることができる。社殿は本殿の他に二棟社殿がある。本殿祭神は天兒屋根命、他の二棟には豊玉比咩命、玉櫛姫命を祀る。
 また西側にはもう一社境内社があるが、祭神はよくわからない。

 御櫛神社の前に訪れた猪上神社はかつては朝護孫子寺の鎮守社として境内にあったが、明治初頭の神仏分離令によって、一旦は境内の外に遷されたが、後に現在地に遷されたという。

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 朝護孫子寺の仁王門をくぐって右側の茂みに少祠が建つ。これが猪上神社である。

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 猪上神社の本殿。祭神は天足彦命、国押人命とされる。元は朝護孫子寺本堂下の水屋と霊宝殿の間に鎮座していたという。その地は水がしみ出でる地であったといい、そこに井戸があり、井上→猪上と変移したという説、または猪上は龗神を祀り、祈雨止雨の祭祀を行っていたからとも。いずれにしても信貴山で水神を祀る社であったと考えるのが自然か。





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