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ニッポン御朱印の旅0017 大鳥神社 2010-04-07 [御朱印の旅]



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鎮座地 大阪府堺市西区鳳北町1-1-2 [地図]
祭神 日本武尊、大鳥連祖神
社格等 式内社(名神大)、官幣大社、別表神社、和泉国一宮
拝観料 不要
駐車場 有り(無料)

 参拝は4月7日、近隣地域の一の宮を埋めておきたいなと思い、大鳥神社に向かった。正式名称が大鳥神社であるが、一般に大鳥大社としての名が通っている。
 前日までは暖かい日が続いていたが、当日はかなり寒く、自転車に乗っていても体が温まるどころか、冷えていく一方であった。



 大鳥神社は摂河泉三国の境、堺市に鎮座し、日本武尊を主祭神とし、大鳥連祖神を配祀する。大鳥連は中臣氏と同じ天児屋命を祖神としており、大鳥連祖神は天児屋命とされる。
 景行天皇の命により熊襲討伐を終えた日本武尊は続けて東夷征討に向かう。その帰途、近江・美濃国境の伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野(三重県亀山市付近)の地で亡くなった。遺体は能褒野陵に葬られたが、その陵墓から大和の方角に向けて白鳥となって飛んでいき、最後に留まった和泉国の当地に社を建立したのが当社の起源とされている。
 また元々は大鳥連の祖神を祀る社であったのを、天照大神、日本武尊と祭神の変遷があったという説もある。
こういった点が加味されたのか、明治29年内務省の通牒により、大鳥連祖神に祭神が変更された。神社側は反発し、日本武尊を主祭神に戻すよう求めていたが、昭和36年に至って日本武尊を増祀することが認められた。それ以降、現在の祭神となっている。
 和泉国一の宮で、鎌倉時代後期の文書、「大鳥社禰宜大鳥頼季申状案」に「和泉国一宮大鳥社」の記録が残る。

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 大鳥神社の境内入口の鳥居。鳥居前を南北に通っている道は熊野街道。鳥居を背にまっすぐ進むと浜寺公園。

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 大鳥神社拝殿、風もあってとても肌寒かった。空も雲に覆われ、どんより薄暗い日だった。

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 大鳥神社本殿は透塀に囲まれ神門が配されている。

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 神門と本殿の屋根部分。本殿は大鳥造と称され、大社造と似ているが、妻入りの部分が中央にくる構造。

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 境内社に式内社、大鳥美波比神社が鎮座する。大鳥五社明神の一社。明治12年(1879)に境内に遷座。明治42年(1909)に式内社押別神社が合祀されている。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より大鳥神社の項。
 大阪府堺市鳳北町。旧官幣大社(現、別表神社)。
 祭神は明治4年(1871)宮社列格の際、大鳥連祖神一柱とせられたが、昭和32年主祭神を日本武尊として二柱に増祀された。
 日本武尊は社伝によれば束夷征討の帰途俄に病を蒙り、伊勢国能褒野に於て薨去され白鳥と化し当地にとどまったという。大鳥連は『新撰姓氏録』に和泉国神別で大中臣朝臣と同祖、天児屋命の後なりとある。
 『新抄格勅符抄』によれぱ大同元年(806)神封二戸が寄せられたとみえる。神階は『三代実録』貞観元年(861)に従三位昇叙がみえ、その後『和泉国神階帳』に正一位とある。
 延喜の制では名神大社に列し祈年・月次・新嘗の官幣並びに祈雨神祭八五座の一としてたびたび臨時奉幣に預かり和泉国一の宮として朝野の崇敬をうける。平清盛・重盛父子が熊野参詣の途次、当社に祈願し和歌及び神馬を奉納していることをはじめ織田・豊臣・徳川各氏も社領の寄進や社殿の造営を行っている。
 本殿は大鳥造と称し、大社造から進展した形式といわれる。天正年間(1573-92)の兵乱により社殿炎上し、慶長7年(1602)豊臣秀頼により再興せられ、寛文2年(1662)徳川家綱の命により堺町奉行石河土佐守利政をして再建され、元禄14年(1701)徳川綱吉は柳沢保明をして修営せしめた。現社殿は明治38年(1905)に雷火のため炎上し、同42年に再建されたもの。境内は約五万平方メートルで千種の森とも呼ばれ6月中旬の花菖蒲は有名である。
 神宮寺であった神鳳寺は行基の開基と伝え、真政円忍律師の中興。摂社の大鳥美波比神社・大鳥北浜神社・大鳥浜神社・大鳥井瀬神社は式内社で、本社と合わせて大鳥五社明神と称せられた。
 主な祭典は例祭が8月13日のほか3月15日=祭神増祀記念祭、4月13日=花摘祭、7月30、31日=夏祭などである。




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