肥前国の式内社を中心に巡る2 ~ 志々伎神社(沖都宮・辺都宮・上宮・中宮) [ツーリング]
田島神社をAM9:30頃出発、国道204号線でひたすら平戸を目指す。途中伊万里市街をバイパスする伊万里湾大橋を渡り、平戸口から平戸大橋を渡り、国道383号線を南下し、更に県道19号線で志々伎神社の鎮座する平戸島南西端を目指す。
県道19号線を進んでいると特徴的な山が見えてくる。おそらく志々伎山であろうと撮影したもので、正解であった。
志々伎神社は延喜式内社で、三代実録においても貞観2年(860)従五位上昇授の記事がある古社である。「肥前国風土記」に志式嶋とあり、社名の由来とされる。祭神は十城別命、景行天皇の孫、日本武尊の第六王子で神功皇后の三韓征伐に従軍し、凱旋後、この地に留まり守護の任を果たしたという。現在は上宮・中宮・辺都宮・沖都宮の四社を持って志々伎神社を成しており、祭祀の中心は中宮であるという。以上のように4社構成となっているので、一番西側、宮の浦の沖都宮から参拝することにした。
宮の浦漁港の港湾内の小島に沖都宮が鎮座。小島へは防波堤で渡ることが出来る。バイクならより近くまで行くことが出来る。
沖都宮の全景。
鳥居は港側に向いて建つものもあり、今は防波堤で陸続きになっているが、かつて船で渡っていた頃の正参道の鳥居なのだろう。
沖都宮拝殿前鳥居の扁額。
沖都宮の拝殿。
沖都宮の本殿。
宮の浦漁港の一角、辺都宮への参道付近に柵で囲まれた石灯籠が建っている。式内社志自伎神社跡の碑があり、地理的に辺都宮の元社地であろうか。
宮の浦港湾の西の地点に辺都宮への参道がある。
辺都宮境内への鳥居。
辺都宮の鳥居扁額。
鳥居をくぐると階段、すぐに拝殿。
辺都宮の拝殿。簡素な倉庫のような造り。
辺都宮の本殿。元は背後のひもろぎの山を祀ったものであるという説がある。
宮の浦漁港を後にし、県道19号線を戻る。志々伎山中腹に鎮座する中宮へは県道に案内板があるのでそれに従って進む。
中宮参道。隣接して阿弥陀寺があるが神宮寺ではない。志々伎山も見える。
中宮参道入口の鳥居。ここから中宮までは約500mの階段参道を歩く。
中宮近くの志々伎山登山道入口。ここまでは車道が通じており、すぐ横に駐車場もある。
上宮への道。右に見える道は駐車場から来た道。中宮はこの道を道なりに進んだ先にある。
上宮参道への分岐からすぐの地点に中宮跡地がある。昭和36年頃までは中宮鎮座地で、古中宮と地元では呼ばれているとのこと。現在の中宮は神宮寺であった円満寺が明治期に廃寺となり、その後に造営されたものである。
上宮参道の石灯籠が置かれた結界点。
上宮参道途中のロープのかけられた岩場。二ヵ所のロープ岩場に少しビビって、この先の難行を想像したのと、今日中に與止日女神社、千栗八幡宮を参拝しておきたい気持ちが混じって、ここで上宮を断念した。この後は結局、與止日女神社にも到着することが出来ず中途半端な一日になった。非常に後悔している。
中腹の駐車場から再び中宮参道に合流し、少し下った場所に木の鳥居が建つ。脇に建つ享保5年銘の石灯籠一対。
中宮境内入口の鳥居。
中宮の拝殿。
中宮拝殿に掲げられた社号扁額。境内入口の鳥居扁額と共に「志自伎神社」となっている。
中宮の本殿。拝殿本殿共に4社の中では一番整備され、かつ規模も大きい。山頂の上宮は石祠である。
祭神は十城別王、相殿に七郎氏広、鴨一隼戸を祀る。相殿二柱は三韓征伐において十城別命に従って従軍した武将とされる。
先の田島神社と共に遣唐使船の出港地であったが故に式内社となったとも言われている。当社は南路コースにあり、もしかしたら空海もこの地を訪れたのだろうかなどと考えながら、志々伎神社を後にした。
以下、神社辞典(東京堂書店)より志々伎神社の項。
長崎県平戸市野子町。旧県社。式内社。
祭神は十城別命・鴨一隼戸命・七郎氏広。西海国立公園平戸島の南の鈎状に突き出した半島部に志々伎山(347メートル)があり、その中腹に鎮座し、山上に上都宮があり、山麓が海にせまり海食崖が発達した景勝地に辺都宮、沖の宮がある。『肥前国風土記』にすでに「志式嶋」とあり、『三代実録』貞観2年(860)にも「志々岐神」に従五位上を授かる記事がみえ、『延喜式』にも松浦郡にその名があり、「下松浦明神」とも称された古社である。
社記には十城別命は仲哀天皇の皇弟であり、『神明帳』頭注には「志志伎神社は稚武王弟、十城別命下松浦明神と号す」とある。弘仁2年(811)神体木像を安鎮し、志志岐神社と改めたのだという。
例祭1月9日、11日。県無形文化財として平戸神楽が指定を受けている。