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肥後国の式内社を中心に巡る1 ~ 疋野神社 [ツーリング]


 與止日女神社をAM8:30頃出発、国道263、264号線で佐賀市街を抜け、国道208号線で疋野神社の鎮座する玉名市へ向かう。玉名市域に入ってすぐの国道208号玉名バイパスに入り、県道165号線を南下した。

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 玉名神社の表参道鳥居。白く背高が印象的。万が一の緊急車両の出入りを考えてるのかなと思った次第。

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 参道を進んだ先の二の鳥居。

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 更に進んで三の鳥居。

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 三の鳥居の先までは車で上がることができ、駐車スペースにもなっている。

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 疋野神社の拝殿。

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 疋野神社の拝殿と本殿。

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 疋野神社の本殿。

 


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肥前国の式内社を中心に巡る3 ~ 玉島神社、與止日女神社 [ツーリング]


 志々伎神社中宮をPM14:00頃出発、来た道をひたすら戻り、平戸口からは国道204号線で佐世保方面へ、佐世保市域の吉井駅あたりから県道54号線、国道498号線、県道326号線で国道202号線に到達、予定では伊万里、多久、小城へ抜けて與止日女神社のつもりであったが、時間的に社務所が閉まっていて御朱印を頂けない可能性と、翌朝に有田の陶山神社から武雄温泉で朝風呂との考えがよぎり、近くの竜門キャンプ場テント泊に切り替えた。

 竜門キャンプ場は竜門ダム湖の最奥にあり、予測どおり時期的にキャンパーは誰もいなかったが、地元の方がキャンプ場前駐車場に車を止めてジョギングしていたりと人の出入りはそこそこ多かった。
 テントはキャンプ場内ではなく、荷物を運ばなくていい管理棟の横に張った。張り終えると、猫がゾロゾロ出没してきたので追い払っていたのだが、ビールなど買い出しに行こうとすると、5匹ほどだろうか、テントの回りをうろつきだし、テントに潜り込もうとしたり、テントに爪を立てるものもいる始末。テントを破られたらかなわんなと都度追い払っていたが、全く効果がない。数十分攻防を繰り返していたが、夜になって何十匹と取り囲まれたら、朝になってテントがボロボロになっていたらなどと考えると、気味が悪くなってきた。
 キャンプ続行するか迷ったが、結局撤退、時間はPM18:00になっていた。テントを畳み終え、宿の不安をなくすために昨日宿泊した唐津の旅館にTELして部屋を確保、再び唐津に向かった。

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 侵入者を追い出して満足げな猫共。なんだかな~、トホホ。

 翌朝は連泊した唐津の旅館を出発、虹ノ松原を貫く県道347号線を西進、国道323号線を南下して與止日女神社を目指す。途中国道323号線沿いの玉島神社に立ち寄った。

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 国道323号線で唐津から最初の峠を越える麓の集落という感じの地に玉島神社が鎮座している。境内へは石垣に挟まれた急階段を登る。鳥居に安永2年(1773)銘。鳥居扁額には神功皇后宮とある。到着はAM7:00頃。

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 玉島神社の拝殿と境内社須賀神社。須賀神社の鳥居扁額には合祀神社とある。境内は広くなく、二の鳥居をくぐると全体を見渡せるほど。

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 玉島神社の拝殿の背後、一段高い地に本殿。祭神は神功皇后。
 神功皇后が三韓征伐にあたって、出征の前に小川で釣りを行い吉凶を占ったところ、たちまちに魚がかかり、皇后は「めづらし(すばらしい)物だ」と言い、その川岸に皇后の宮を置いたという。その宮が当社の起源であり、釣りをした小川が当社の前を流れる玉島川、釣れた魚は鮎で、この故事により魚偏に占うと表すようになったという。
 また皇后が発した「めづらし物」の「めづら」が佐賀長崎北部海岸域を松浦と呼ぶようになった語源という。

 玉島神社は境内が広くないので5分ほどで参拝、撮影を済ませて、国道323号線を南下して、肥前国一宮、與止日女神社を目指す。
 国道323号線と国道263号線が嘉瀬川を挟んでしばらく併走し、川上橋で合流する地点の少し南に與止日女神社が鎮座する。

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 與止日女神社は嘉瀬川の右岸、境内域は川上橋を北端に南側に公園、駐車場と連なっている。画像は南端の駐車場入口に建つ鳥居。AM8:00頃到着。

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 鳥居の脇に猿田彦大神と刻まれた碑。この石碑に祀っているようである。

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 駐車場を出て、境内の手前の公園に建つ鳥居。

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 境内手前の階段脇にある庚申社と刻まれた碑。先の猿田彦大神碑との関連であろう。

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 與止日女神社の拝殿、背後の本殿は透塀で囲まれる。

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 與止日女神社の拝殿。

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 拝殿内陣。

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 與止日女神社の本殿。祭神は與止日女命。一説に豊玉姫、あるいは神功皇后の妹君であるともいう。 「肥前国風土記」には欽明朝25年に与止姫神が鎮座したとの記録がある。
 延喜式に與止日女神社との記載がある式内社で、三代実録にも貞観2年(860)に従五位上昇従の記録が残る古社である。
 嘉瀬川は川上川とも呼ばれ、中世には河上社とも称せられた。 嘉応2年(1170)の記録には、境内に本殿がなく、佐賀平野の上流嘉瀬川を神体とした神社だったとも言われる。
 応保2年(1162)の文書を所見にして当社が一宮であるとの記載が残っているが、これは千栗八幡宮との一宮争いにおける改竄であるとされる。千栗八幡宮は宇佐八幡宮の五所別宮の一社であるが、中世においては一宮争いがあったとの痕跡はなく、慶長19年(1614)に後陽成天皇が当社に一宮と認めるような勅額を下して以降に争いに発展したという。千栗八幡宮には建暦3年(1213)に一宮を称していたという記録があり、中世においては一宮は千栗八幡宮が称していたと思われ、一宮争いは近世以降のものである説が有力である。

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 本殿背後の石祠群。公式頁によれば「若宮社(仁徳天皇)、百代宮(豊玉姫命和魂神)、代永宮(同荒魂神)、香椎宮、竃門宮、寶満宮、王子宮、淀姫社、住吉社、志賀宮、加茂宮、春日宮、稲荷宮、阿蘇宮、山王宮、乙宮社、高良宮」

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 境内の川側に金精さんと呼ばれる陽根型の石。

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 境内を西門から出ると、河上山実相院の山門。当社関連文書を多く伝来している。神宮寺である河上山神通寺の十二子院の一つである。

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 境内から嘉瀬川を見る。時期的に鯉のぼりを両岸にかけて渡らせていた。
 この時点でAM8:30頃。ゆっくりまわったが、境内はそんなに広くなく、30分ほどで終了。社務所が開く気配もなく、千栗八幡宮、荒穂神社に行ってから、再度戻ってこようかと考えたが、南へ進むことを優先することにし、御朱印は次回に持ち越しになった。前日からの行動がちぐはぐな感じになり、朝から少しテンションが下がったが、南下に参拝旅好転の期待をかけることにした。
 


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肥前国の式内社を中心に巡る2 ~ 志々伎神社(沖都宮・辺都宮・上宮・中宮) [ツーリング]


 
 田島神社をAM9:30頃出発、国道204号線でひたすら平戸を目指す。途中伊万里市街をバイパスする伊万里湾大橋を渡り、平戸口から平戸大橋を渡り、国道383号線を南下し、更に県道19号線で志々伎神社の鎮座する平戸島南西端を目指す。

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 県道19号線を進んでいると特徴的な山が見えてくる。おそらく志々伎山であろうと撮影したもので、正解であった。
 志々伎神社は延喜式内社で、三代実録においても貞観2年(860)従五位上昇授の記事がある古社である。「肥前国風土記」に志式嶋とあり、社名の由来とされる。祭神は十城別命、景行天皇の孫、日本武尊の第六王子で神功皇后の三韓征伐に従軍し、凱旋後、この地に留まり守護の任を果たしたという。現在は上宮・中宮・辺都宮・沖都宮の四社を持って志々伎神社を成しており、祭祀の中心は中宮であるという。以上のように4社構成となっているので、一番西側、宮の浦の沖都宮から参拝することにした。

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 宮の浦漁港の港湾内の小島に沖都宮が鎮座。小島へは防波堤で渡ることが出来る。バイクならより近くまで行くことが出来る。

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 沖都宮の全景。

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 鳥居は港側に向いて建つものもあり、今は防波堤で陸続きになっているが、かつて船で渡っていた頃の正参道の鳥居なのだろう。

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 沖都宮拝殿前鳥居の扁額。

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 沖都宮の拝殿。

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 沖都宮の本殿。

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 宮の浦漁港の一角、辺都宮への参道付近に柵で囲まれた石灯籠が建っている。式内社志自伎神社跡の碑があり、地理的に辺都宮の元社地であろうか。

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 宮の浦港湾の西の地点に辺都宮への参道がある。

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 辺都宮境内への鳥居。

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 辺都宮の鳥居扁額。

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 鳥居をくぐると階段、すぐに拝殿。

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 辺都宮の拝殿。簡素な倉庫のような造り。

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 辺都宮の本殿。元は背後のひもろぎの山を祀ったものであるという説がある。

 宮の浦漁港を後にし、県道19号線を戻る。志々伎山中腹に鎮座する中宮へは県道に案内板があるのでそれに従って進む。

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  中宮参道。隣接して阿弥陀寺があるが神宮寺ではない。志々伎山も見える。

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 中宮参道入口の鳥居。ここから中宮までは約500mの階段参道を歩く。

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 中宮近くの志々伎山登山道入口。ここまでは車道が通じており、すぐ横に駐車場もある。

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 上宮への道。右に見える道は駐車場から来た道。中宮はこの道を道なりに進んだ先にある。

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 上宮参道への分岐からすぐの地点に中宮跡地がある。昭和36年頃までは中宮鎮座地で、古中宮と地元では呼ばれているとのこと。現在の中宮は神宮寺であった円満寺が明治期に廃寺となり、その後に造営されたものである。

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 上宮参道の石灯籠が置かれた結界点。

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 上宮参道途中のロープのかけられた岩場。二ヵ所のロープ岩場に少しビビって、この先の難行を想像したのと、今日中に與止日女神社、千栗八幡宮を参拝しておきたい気持ちが混じって、ここで上宮を断念した。この後は結局、與止日女神社にも到着することが出来ず中途半端な一日になった。非常に後悔している。

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 中腹の駐車場から再び中宮参道に合流し、少し下った場所に木の鳥居が建つ。脇に建つ享保5年銘の石灯籠一対。

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 中宮境内入口の鳥居。

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 中宮の拝殿。

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 中宮拝殿に掲げられた社号扁額。境内入口の鳥居扁額と共に「志自伎神社」となっている。

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 中宮の本殿。拝殿本殿共に4社の中では一番整備され、かつ規模も大きい。山頂の上宮は石祠である。
 祭神は十城別王、相殿に七郎氏広、鴨一隼戸を祀る。相殿二柱は三韓征伐において十城別命に従って従軍した武将とされる。
 先の田島神社と共に遣唐使船の出港地であったが故に式内社となったとも言われている。当社は南路コースにあり、もしかしたら空海もこの地を訪れたのだろうかなどと考えながら、志々伎神社を後にした。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より志々伎神社の項。
 長崎県平戸市野子町。旧県社。式内社。
 祭神は十城別命・鴨一隼戸命・七郎氏広。西海国立公園平戸島の南の鈎状に突き出した半島部に志々伎山(347メートル)があり、その中腹に鎮座し、山上に上都宮があり、山麓が海にせまり海食崖が発達した景勝地に辺都宮、沖の宮がある。『肥前国風土記』にすでに「志式嶋」とあり、『三代実録』貞観2年(860)にも「志々岐神」に従五位上を授かる記事がみえ、『延喜式』にも松浦郡にその名があり、「下松浦明神」とも称された古社である。
 社記には十城別命は仲哀天皇の皇弟であり、『神明帳』頭注には「志志伎神社は稚武王弟、十城別命下松浦明神と号す」とある。弘仁2年(811)神体木像を安鎮し、志志岐神社と改めたのだという。
 例祭1月9日、11日。県無形文化財として平戸神楽が指定を受けている。



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