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肥前国の式内社を中心に巡る1 ~ 唐津神社、田島神社 [ツーリング]


 九州2日目は降水確率を考慮して、午後からの予報が比較的良かった福岡佐賀方面に変更し、高良大社(筑後国一の宮 高良大社を巡る)で時間切れとなった。久留米で宿泊し、荒穂神社、千栗八幡宮、與止日女神社と回ることも考えたが、地理的に難しい平戸島南端の志々伎神社を今回の参拝旅で埋めておきたい気持ちが強かったので、できるだけ近くに歩を進めておこうと田島神社のある加部島に向かうことにした。
 加部島には北端にキャンプ場があって、九州に来るたびにテントを張っている。「土地勘」があって、お気に入りでもある場所。安心感を得るために今回も向かったのだが、唐津市街地に到達する頃にはあたりはうす暗くなってしまい断念。よって唐津市街地の旅館で宿泊した。

 その翌日2012年5月16日は朝から好天で、式内社ではないが、唐津くんちで著名な唐津神社で朝の参拝を済ませ、その後田島神社、志々伎神社へ向かうことにした。

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 唐津神社の鳥居。白塗り背高で印象深い。唐津市役所の北側に鎮座。

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 境内は一段高くなっており、階段を上がった先に鳥居。手前に縣社唐津神社と刻まれた社号標が建つ。

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 境内前の鳥居に来た時から、朝7時過ぎにも関わらず、人の出入りが多いなと思っていたのだが、参拝しているとますます人が増えて、境内の清掃が始まった。市役所が近いので役場の方ですかと聞くと、近くの信用金庫の職員さんだという。朝早くからご苦労様です。

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 唐津神社の拝殿。境内社が多く、人の少ないポイントを選びながら一通り撮影をして出発しようとしていると清掃が終わり、信金の職員さんも三々五々職場に向かっていき、境内は無人になったので、それならと撮影し直したもの。

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 唐津神社の本殿。祭神は一の宮に底筒男命、中筒男命、表筒男命の住吉三神、二の宮に神田宗次、相殿に水波能女神となっている。
 境内由緒書によれば三韓征伐から帰国した神功皇后が、松浦の海浜に宝鏡を縣けて住吉三神を祀った。時を経て住吉三神を祀った所定かではなくなったが、天平勝宝7年(755)に、時の領主、神田宗次が神夢により海浜で宝鏡を得たので、朝廷に奏聞し唐津大明神の称号を賜ったという。
 松浦の海浜がどこかはわからないが、その場所から漂流した宝鏡をこの地で発見し、神功皇后が祀った宝鏡であるとして祀ったことが起源とされている。

 唐津神社で少し時間を取ってしまったが、唐津市域旧呼子町を目指して北上、呼子大橋を渡り加部島に向かう。

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 加部島の東海岸線を走っていると、山に延びる道との分岐点に鳥居が建っていた。地図で見てみると、鳥居側の道も田島神社境内入口前ににつながっている道である。

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 更に海岸線を北上すると、バス停加部島渡船場前の前に鳥居。田島神社は鳥居裏手の山の向こう、北側にある。後に田島神社の対岸で撮影している時に地元の方に聞いてみると、1989年に呼子大橋が開通するまでは呼子港からの船着場であり、バス停の名前がそのまま残っているとのこと。

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 田島神社の境内入口。社号標が建つ。ここにはAM8:40頃に到着。

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 境内に入って最初の鳥居。田島神社から望む湾は漁港になっている。

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 社殿への登り口は二箇所ある。

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 登り口の二箇所のうち境内入口に近い側に建つ鳥居は頼光鳥居と呼ばれる。源頼光が肥前守として当国に赴いた際に寄進したものとされる。年号銘はなかったと思う(画像がなかった)。

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 頼光鳥居の鳥居扁額。田島宮の文字は三蹟藤原佐理の筆によるという。

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 楼門への階段と鳥居。

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 楼門と相対して港湾に向って建つ鳥居。鳥居をくぐると船着き場。

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 楼門を内側から。左側の門は頼光鳥居からの入口。

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 楼門をくぐると正面に拝殿への階段。

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 田島神社の拝殿。

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 田島神社の本殿。社殿は西北に向かって建ち、それは異国降伏のためであると社伝はいう。延喜式に「田嶋坐神社」と記載され、肥前国唯一の名神大社である。
 田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊のいわゆる宗像三女神を祀り、大山祇神、稚武王尊を配祀する。古来より宗像三女神を祀っているようであるが、延喜式では一座となっている。
 社名の田嶋坐神社は、加部島が田嶋であったと単純に考えることができるが、宗像神社辺津宮が宗像市田島に鎮座していることから、宗像神社からの勧請であったとする説もあるようである。
 「式内社の研究」では付近の島には田がないが、当社北側に田のある集落があり、加部島を田島と呼んでいたと推測している。
 古来より壱岐、対馬航路の要衝であり、海上交通の国家的祭祀が執り行われた場所とされる沖の島(宗像神社沖津宮)とそれを取り囲むように玄界灘の両端に鎮座する宗像神社と当社、更に壱岐、対馬を加えた位置関係はとても興味深い。両社においては根を同じくする祭祀を執り行っていたと考えてみたくなる。
 山口県角島あたりも沖の島サークルに加えたいが、土井が浜では無理があるかな、というのは余談の雑談。

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 境内社の佐與姫神社。佐用姫伝説の松浦佐用姫を祀る。佐用姫が夫の無事を息絶えるまで祈り続け、そのまま石となったと言われる神石望夫石が神体となっている。

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 佐與姫神社の裏手に境内社の御崎神社。級長津彦神、級長津姫神、猿田彦神を祀る。風神と天孫先導の神との組み合わせは、船舶安全の社である。

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 御崎神社からさらに進む道があり、進んでいくと太閤祈念石がある。文禄の役の折、大願成就にはこの岩を二つに割るべしとの神託を得、秀吉が槍を突いてふたつに割ったという伝承を持つ。

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 田島神社を対岸から。港湾に面した鳥居から楼門、拝殿、本殿。対岸から見るのは初めてで、風格あるとてもいい神社である。撮影している時に地元の方に話しを聞くことが出来た。
 鳥居の船着き場は祭りの時に船渡御に使用されるのかと聞いてみると、今は神社から海に出ることはないといい、自分が生まれる前にはあったらしいという。「式内社の研究」では七月の夏越祭が盛んであるが、百手祭は明治期に廃されたとある。ネットのソースでは田島神社の夏越祭には船は出ていない。もしかすると百手祭では鳥居の船着き場から船渡御が執り行われていたのかもしれない。

神道事典以下、神道事典(弘文堂)より田島神社の項。
佐賀県唐津市呼子町加部島3956
<祭神>田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊、大山祇神、稚武王尊
<例祭日>9月16日
<神事>呼子町祭、夏越祭
<指定文化財>大刀一振(銘備中国住人吉次、重文)
<由緒>式内社。社伝によれば、天平年間(729-49)この地に稚武王を配祀し、のちに朝廷より大伴古麻呂が派遣され田島大明神の神号が贈られたという。大同元年(806)に神封十六戸を寄せた記録があり、当時すでに太宰府の管轄地域の主要神社であった。大陸との交通の要路に位置し、北西を向く社殿は異国降伏のためであるとされる。『延喜式』では名神大社に列す。文禄2年(1593)には豊臣秀吉が社領を寄進している。
<旧社格>国幣中社(明治4年)

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 田島神社の御朱印です。桜の印が逆なのは気のせいでしょうか。。。


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筑後国一の宮 高良大社を巡る3 ~高良大社、奥宮 [ツーリング]


 昨年8月より長期間更新休止していたが、少し時間の余裕ができたので、更新を再開する。更新頻度は低くなると思うが、またよろしくお願いします。
 
 大学稲荷神社から自動車参道を登り切ると、ひときわ大きな建物が見えてくる。高良会館である。その高良会館の脇に三の鳥居が建ち、階段を登り切れば高良大社の境内である。

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 高良大社への境内へ続く三の鳥居。急坂の石階段を登って境内へ入る。

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 階段を登り切った正面に中門。安永6年(1777)に久留米藩主有馬頼憧が寄進したもの。

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 社殿は透塀で囲まれている。

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 中門をくぐるとすぐに拝殿が建つ。当社リーフレットには万治2年(1659)から4年にかけて、久留米藩主有馬頼利の寄進により造営されたものという。権現造りで江戸時代初期の特色を留めているとある。 豪壮な拝殿は大社の威厳を誇る。

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 高良大社の本殿。延喜式では名神大社に列し、高良玉垂命神社と記載される古来よりの大社である。現在の祭神は高良玉垂命の他、八幡大神、住吉大神を祀る。
 社伝では仁徳天皇の御宇に鎮座、履中天皇の御宇に社殿を建立したとされる。

 西面に向かって建つ社殿の周囲、透塀の外側に境内社が立ち並んでいる。

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 社殿の右側の奥、高良御子神社が鎮座。高良玉垂命の御子神九柱を祀る。この御子神は九躰王子とも称せられる。
 山川町鎮座の王子宮(高良御子神社)を明治6年に勧請し鎮座。

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 高良御子神社と並んで真根子神社が鎮座。祭神は壱岐真根子命。武内宿祢の忠臣であるという。五所八幡宮、日吉神社、風浪神社が合祀されている。
 真根子神社の社殿は、豊比咩神社の旧社殿と伝わる。

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 社殿の左側の奥にも境内社二社が並ぶ。その右側の印鑰神社。祭神は武内宿祢。高良山麓の印鑰社を明治6年に勧請した。

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 印鑰神社の左隣に市恵比須社。夫婦恵比須神を祀り、その神像が御神体となっている。

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 高良会館屋上の展望台から筑後平野を望む。中央のS字は九州道で、その向こうS字を貫くように筑後川が流れる。

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 高良大社三の鳥居から耳納山スカイラインで奥宮(奥の院)へ向かう。バイクで約3分ほどの奥宮の鳥居。

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 少し歩いた所の参道鳥居。

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 奥宮社殿手前の鳥居。

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 奥宮の社殿。武内宿祢の葬所との伝承があり、「高良廟」「御神廟」と称せられた、高良山信仰の聖地とされる。

 前日泊の別府から天気予報を参考に進路を西に取って筑前筑後の式内社を中心に巡り、最後に高良大社を訪れた。時間の関係で高良大社周辺の式内社は回ることが出来なかったし、参道にある式内論社も見落としてしまった。全く中途半端な参拝になってしまい、再訪の意を強く持ちながら高良大社を後にすることになった。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より高良大社の項。
 福岡県久留米市御井町。旧国幣大社(現、別表神社)。
 高良玉垂命を主神として、相殿に八幡大神・住吉大神を奉斎している。主神の高良玉垂命は、高良の山に鎮まり、奇しき恵みを万民に垂れる筑紫の国魂の神であるという。また「玉垂」については、元来は「霊照」であったともいわれている。
 社伝によれぱ、当社の創建は、履中天皇の元年であり、天武天皇の白鳳2年(673)2月、神主物部道麿の子美濃理麿に神託があり、それによって、大祝家三男隆慶を、社僧にしたという。その子孫は、江戸時代前まで、48世続き、盛時には、当社の神宮寺御井寺の座主として1000余名の僧徒を支配した。桓武天皇の延暦14年(795)5月には、神階従五位下が授けられ、以後、たびたびの昇叙に預かり、清和天皇の貞観11年(869)には従一位、宇多天皇の寛平9年(897)には正一位が授けられた。
 神領についてみると、斉衡2年(855)5月位田四町、元安元年(857)10月、封戸位田を充てられたことが国史に見える。最も多かった時で、9890町の神領を有していたといわれる。
 『延喜式』(927)には「高良玉垂命神社」の名で見え、名神大社に列している。また筑後の国一の官でもある。
 鎌倉時代まで、社殿の造営は勅裁によって行われたといわれ、文永5年(1268)蒙古の使者が大宰府にきて、国難逼迫するや、当社に勅使の差遣があり、綸旨を賜ったという。10月に行われる大祭には大宰府より勅使が立ち、九州九ヵ国の国司、郡司が参集して奉仕、南北朝時代には、小弐、大友・菊地・島津の四氏を「四頭」に任じ、輪番で祭事に奉仕した。
 江戸時代、日光輪王寺門主が当社神宮寺の座主を任命、座主は59世まで続いたが、明治の神仏判然令により、寺坊は除かれ、座主も廃止された。明治4年(1871)5月14日、国幣中社に列し、大正4年(1915)11月10日、国幣大社に昇格した。例祭10月9~11日。6月1日、2日には川渡祭(へこかきまつり)が行われる。
 宝物として「紙本墨書平家物語」(国指定重文)がある。本殿・拝殿は国の重要文化財。

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 高良大社の御朱印。素晴らしい筆遣いで感激した。


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筑後国一の宮 高良大社を巡る2 ~愛宕神社、桃青霊神社、大学稲荷神社 [ツーリング]


 高樹神社から車道を進むとすぐに二の鳥居が見えてくる。

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 二の鳥居から徒歩の参道が分岐する。この参道には参拝ポイントが多数存在することが帰宅後に判明した。また式内社伊勢御祖神社の論社もあるのだが、この時点では山上の境内にあるのだろうと思っていた。しかし山上の境内で参拝し撮影している時には伊勢御祖神社のことはすっかり頭から消えていた。というわけで伊勢御祖神社の参拝は行っていない。残念。
 参拝旅は余裕を持ったスケジュールにしないとこういう羽目になるのだ。

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 二の鳥居の扁額には高良玉垂宮とある。

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 車道の参道を進むと愛宕神社への看板があり、脇の道を進むと、愛宕神社境内の裏側から入ることになるので、鳥居を捜して撮影する。

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 愛宕神社の拝殿。

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 愛宕神社の本殿。祭神はカグツチ。万治3年(1660)49世座主秀賀法印によって隈山に勧請され、寛文11年(1671)に現社地に遷座されたという。

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 愛宕神社から少し登ると桃青霊神社。松尾芭蕉を祀った最初の神社であるという。同域に宮地嶽神社(向かって右側)が鎮座。

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 桃青霊神社からまた少し登ると大学稲荷神社の境内入口の鳥居。

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 愛宕神社と同様、境内の裏側から入ることになる。左側の道がそれ。

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 大学稲荷神社の拝殿。

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 大学稲荷神社の本殿。筑後稲荷十社第一の社と称される。明和8年(1771)高良山座主寂信僧正が現在の伏見稲荷大社から勧請して創建された。



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