SSブログ

筑後国一の宮 高良大社を巡る3 ~高良大社、奥宮 [ツーリング]


 昨年8月より長期間更新休止していたが、少し時間の余裕ができたので、更新を再開する。更新頻度は低くなると思うが、またよろしくお願いします。
 
 大学稲荷神社から自動車参道を登り切ると、ひときわ大きな建物が見えてくる。高良会館である。その高良会館の脇に三の鳥居が建ち、階段を登り切れば高良大社の境内である。

R0011254_r.jpg
 高良大社への境内へ続く三の鳥居。急坂の石階段を登って境内へ入る。

R0011268_r.jpg
 階段を登り切った正面に中門。安永6年(1777)に久留米藩主有馬頼憧が寄進したもの。

R0011261_r.jpg
 社殿は透塀で囲まれている。

R0011258_r.jpg
 中門をくぐるとすぐに拝殿が建つ。当社リーフレットには万治2年(1659)から4年にかけて、久留米藩主有馬頼利の寄進により造営されたものという。権現造りで江戸時代初期の特色を留めているとある。 豪壮な拝殿は大社の威厳を誇る。

R0011263_r.jpg
 高良大社の本殿。延喜式では名神大社に列し、高良玉垂命神社と記載される古来よりの大社である。現在の祭神は高良玉垂命の他、八幡大神、住吉大神を祀る。
 社伝では仁徳天皇の御宇に鎮座、履中天皇の御宇に社殿を建立したとされる。

 西面に向かって建つ社殿の周囲、透塀の外側に境内社が立ち並んでいる。

R0011265_r.jpg
 社殿の右側の奥、高良御子神社が鎮座。高良玉垂命の御子神九柱を祀る。この御子神は九躰王子とも称せられる。
 山川町鎮座の王子宮(高良御子神社)を明治6年に勧請し鎮座。

R0011264_r.jpg
 高良御子神社と並んで真根子神社が鎮座。祭神は壱岐真根子命。武内宿祢の忠臣であるという。五所八幡宮、日吉神社、風浪神社が合祀されている。
 真根子神社の社殿は、豊比咩神社の旧社殿と伝わる。

R0011271_r.jpg
 社殿の左側の奥にも境内社二社が並ぶ。その右側の印鑰神社。祭神は武内宿祢。高良山麓の印鑰社を明治6年に勧請した。

R0011272_r.jpg
 印鑰神社の左隣に市恵比須社。夫婦恵比須神を祀り、その神像が御神体となっている。

R0011277_r.jpg
 高良会館屋上の展望台から筑後平野を望む。中央のS字は九州道で、その向こうS字を貫くように筑後川が流れる。

R0011279_r.jpg
 高良大社三の鳥居から耳納山スカイラインで奥宮(奥の院)へ向かう。バイクで約3分ほどの奥宮の鳥居。

R0011281_r.jpg
 少し歩いた所の参道鳥居。

R0011282_r.jpg
 奥宮社殿手前の鳥居。

R0011283_r.jpg
 奥宮の社殿。武内宿祢の葬所との伝承があり、「高良廟」「御神廟」と称せられた、高良山信仰の聖地とされる。

 前日泊の別府から天気予報を参考に進路を西に取って筑前筑後の式内社を中心に巡り、最後に高良大社を訪れた。時間の関係で高良大社周辺の式内社は回ることが出来なかったし、参道にある式内論社も見落としてしまった。全く中途半端な参拝になってしまい、再訪の意を強く持ちながら高良大社を後にすることになった。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より高良大社の項。
 福岡県久留米市御井町。旧国幣大社(現、別表神社)。
 高良玉垂命を主神として、相殿に八幡大神・住吉大神を奉斎している。主神の高良玉垂命は、高良の山に鎮まり、奇しき恵みを万民に垂れる筑紫の国魂の神であるという。また「玉垂」については、元来は「霊照」であったともいわれている。
 社伝によれぱ、当社の創建は、履中天皇の元年であり、天武天皇の白鳳2年(673)2月、神主物部道麿の子美濃理麿に神託があり、それによって、大祝家三男隆慶を、社僧にしたという。その子孫は、江戸時代前まで、48世続き、盛時には、当社の神宮寺御井寺の座主として1000余名の僧徒を支配した。桓武天皇の延暦14年(795)5月には、神階従五位下が授けられ、以後、たびたびの昇叙に預かり、清和天皇の貞観11年(869)には従一位、宇多天皇の寛平9年(897)には正一位が授けられた。
 神領についてみると、斉衡2年(855)5月位田四町、元安元年(857)10月、封戸位田を充てられたことが国史に見える。最も多かった時で、9890町の神領を有していたといわれる。
 『延喜式』(927)には「高良玉垂命神社」の名で見え、名神大社に列している。また筑後の国一の官でもある。
 鎌倉時代まで、社殿の造営は勅裁によって行われたといわれ、文永5年(1268)蒙古の使者が大宰府にきて、国難逼迫するや、当社に勅使の差遣があり、綸旨を賜ったという。10月に行われる大祭には大宰府より勅使が立ち、九州九ヵ国の国司、郡司が参集して奉仕、南北朝時代には、小弐、大友・菊地・島津の四氏を「四頭」に任じ、輪番で祭事に奉仕した。
 江戸時代、日光輪王寺門主が当社神宮寺の座主を任命、座主は59世まで続いたが、明治の神仏判然令により、寺坊は除かれ、座主も廃止された。明治4年(1871)5月14日、国幣中社に列し、大正4年(1915)11月10日、国幣大社に昇格した。例祭10月9~11日。6月1日、2日には川渡祭(へこかきまつり)が行われる。
 宝物として「紙本墨書平家物語」(国指定重文)がある。本殿・拝殿は国の重要文化財。

40-kourataisya.jpg
 高良大社の御朱印。素晴らしい筆遣いで感激した。


nice!(27)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 27

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。