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往馬大社・龍田大社と平群郡の式内社3 ~ 船山神社、平群神社、平群石床神社 [ポタリング]



 楢本神社から国道168号線に戻り、更に近鉄生駒線を越えて船山神社を目指す。船山神社へは、当日実際には少し南に回り道してしまったのだが、国道168号吉新交差点を東に向かい、道なりに山側へ進んでいくと到着する。このルートだと探している内に船山神社への案内板も見つかるだろう。

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 船山神社の境内入口の鳥居。鳥居前は荒れた空き地。集落の奥まった地に鎮座する。式内社船山神社の比定社。
 たまに現れる我が愛車が左に見切れて登場 笑。

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 鳥居をくぐるとすぐに割拝殿が建つ。

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 割拝殿の先、本殿までの階段。

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 船山神社の本殿。石垣の上の瑞垣に囲まれる。

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 船山神社は磐座信仰の社であり、境内東の丘陵上八合目に巨石が三体あり(舟石三体、あるいは舟石一体・鯰石二体とも)、この巨石群より少し下がったところが式内社船山神社のあった場所だという。磐座信仰の社らしく、本殿拝所横には陽石がそそり立っている。境内由緒書きによれば、旧社地より移されてきたものであるという。ここでいう旧社地とは、東光寺東側のことであろう。

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 船山神社の祭神は三柱、船山神、天兒屋根命、住吉神とされる。船山神は前述の巨石三体、天兒屋根命は当地が元は安明寺の春日神社であって、式社である船山神社を合祀したものであり、地主神である。住吉神は中之宮の氏神を当社に合祀したものだろうか。
 社殿三棟にどの祭神が祀られているのかはわからない。おそらく中央に船山神、左に春日神、右に住吉神であろうか。
 式内社の研究によれば、船山神の神体の舟石は磐船が連想でき、その降臨伝承から饒速日尊を祀ったものではないかと説く。となれば物部氏の関与が考えられるが、その痕跡を見つけることは出来ない。

 船山神社の旧社地については、船山神社境内入口左に掲示板があり、そこに書かれている。掲示板によれば、南東200メートルの東光寺東側とあるが、実際には南西200メートルの間違いである。

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 その東光寺は堂宇が一棟建つのみ。

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 その東側が旧社地。岩肌が剥き出し、巨石がいくつも転がっている。磐座信仰の地としてふさわしい。ここから、丘陵上の巨石三体を遙拝していたのだろうか。あるいは山上の船山本宮に対し、この地を里宮としたのだろうか。

 船山神社からは再び近鉄生駒線を挟んだ西側にある平群神社を目指す。生駒山口神社から平群神社までは生駒線を挟んでキザギザにルートを南下したことになる。
 平群神社へは龍田川も越えるのだが、平群バイパスが合流する平等寺交差点前後には龍田川を渡る橋が架かっていないため、船山神社からは出来るだけ道なりに西への道を進み、平群駅南西部に架かる二つの橋のうちのどちらかを渡るようにすると良い。

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 前述の二つの橋の内どちらかを渡り、龍田川沿いの道を南下していると、平群神社への案内板が見つかるのでそれに従って進むと平群神社にたどり着く。延喜式の平群神社五座並大という記載から、平群谷の堂々の大社を想像させたが、集落の鎮守の佇まいである。

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 境内にあがると社殿は石垣上に建てられている。階段上にはまず割拝殿を配している。

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 社殿への階段前には木製の神明鳥居と社号碑。

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 割拝殿から本殿が見通せる。神明造り妻入の本殿。祭神は大山祇神、平群氏の祖、武内宿禰が神功皇后の三韓征伐の戦勝祈願として大山祇神をこの地に祀ったという。
  延喜式の平群神社五座に関しては資料がなくよくわからないが、平群神社において平群氏が祖神を祀り、当地にて祭祀を行っていたと考えると通りが良い。平群氏の没落は五世紀末の大伴氏との抗争によって確定するが、六世紀末期にはある程度の再興を果たしている。平群神社の現在の佇まいは、往古の隆盛を誇った平群氏への名誉社格が五座並大につながってのではないか、と思わせるほど簡素なものである。また式内社の研究では、単なる誤編集だったという説を紹介している。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より平群神社の項。
奈良県生駒郡平群町西宮。
 旧村社。俗に西の宮といい、天保3(1832)年頃は春日大明神と称した。
『延喜式』に「平群神社五座並大月次新嘗」とある。祭神を大山祗神とするが、『大和志料』には「詳ナラズ」とみえ、五座を何にあてるか不明。
 雄略即位前紀に平群臣真鳥が大臣として活躍し、平群の臣の始祖とする木菟宿禰は応神天皇3年、百済王の無礼をとがめに百済へ遣わされた。この鎮座地周辺は、5~6世紀にかけ、平群氏の地盤であったと思われる。

 この日の巡拝は平群神社の後に訪れた、龍田大社で打ち止めだったのだが、これ以降は以前にバイクで平群群南部を回ったレポートを書いてみる。その時バイクでは南から回ったため今回は逆順でアップしていき、最後に龍田大社で終えることにする。

 平群神社から直線距離で約900m西の位置にある。周囲は傾斜地に建てられた古い民家が建ち並ぶ。平群石床神社の周辺は舗装路でもアスファルトではない細い道もあり、自動車での訪問はなかなか難しそう。平群町大字越木塚に鎮座。

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 平群石床神社は磐座信仰の社である。現社地は大正13年、消渇神社に合祀されたもの。磐座信仰の一旦を見るには旧社地へ向かわなければならない。これは後述することにする。
 消渇神社は一段高い地に鎮座しており、境内に入ると、まず平群石床神社の社域に足を踏み入れることになる。境内入口の社号碑には式内大社平群石床神社とある。鳥居をくぐるとすぐに拝殿が建つ。

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 平群石床神社の拝殿。特に変哲はない。
 拝殿前の狛犬台座には天保5(1834)年銘、本殿前には寛文7(1667)年銘の石灯籠がある旨、境内由緒書に記載があるが、現社地に合祀した際、旧社地より持ってきたものか、元々当地にあったものなのかはわからない。

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 拝殿の奥すぐに社殿が三棟並ぶ。中央が式社である平群石床神社、左右の社殿は、境内由緒書の順序によれば、左に天太玉命、右に素盞嗚命を祀る社。この場所は元々素盞嗚神社であったところに式社である平群石床神社が遷座してきた。天太玉命の一社があるので、旧社地も含めて忌部氏の痕跡を探してみたが、見つけられなかった。

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 境内地の一段高い場所に消渇神社がある。元は正勝(まさかつ)の産土神を祀った神社であるとのことだが、現在の地図に正勝の地名は見つけられない。あるいは近隣になにがし丘・台という取って付けられた新興住宅地の地名があるので、そこを含めたこの周囲が正勝「区」であったのかも知れない。
 また想像を深くすれば、天孫降臨の説話に登場する天忍穂耳命は古事記において正勝吾勝勝速日天忍穂耳命と名を表記されるので、元は天忍穂耳命を祀り、その正勝を採ったのではないかというものだが、これはちょっと強引。

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 消渇神社の本殿。消渇は正勝からの変転であろう。江戸時代には社名から女性の病気や性病に効果があるとして、京都の祇園からの参拝者があり、参道は大いに賑わったという。消渇とは、淋病の意であるという。元は正勝神社であったところ、性病治癒の神社として著名になったため、消渇神社と社号を変えたのであろうか。
 願掛けには土団子を12個作って供える。土団子12個についてはどういういわれがあるのかよくわからない。
 また先の素盞嗚神社については、祇園からの参拝者が多かったというところから、祇園社を勧請したのであろうか。この神社は疑問が多く湧いてくる。

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 消渇神社の割拝殿に供えられた土団子。多く供えられている。今でも病気治癒の願掛け神社として参拝者が多いようである。





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往馬大社・龍田大社と平群郡の式内社2 ~ 生駒山口神社、紀氏神社、楢本神社 [ポタリング]



 往馬大社を後にして、国道168号線を更に南下する。第二阪奈道路の高架道を越えて近鉄南生駒駅の先で、菜畑駅手前で分岐したもう一本の国道168号線と合流するが、また1kmほどで国道168号線平群バイパスと分岐する。生駒山口神社へはバイパス道ではない西側の道を進む。元山上口駅北側の踏切を渡り、しばらく坂道を上っていくと生駒山口神社に到着する。

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 生駒山口神社境内入口の鳥居。鳥居正面の神橋を渡って西の方向に延びる登山道は十三峠越えの道へとつながっている。かつては十三峠越えのルートのひとつであっただろう。

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 鳥居の脇には「式内生駒山口神社」と刻まれた社号碑。

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 境内へは急な角度の階段を登る。自転車で坂道を上ってすぐに階段を登ると、腿がひぃひぃと鳴く 笑。

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 生駒山口神社の拝殿。割拝殿で外壁が格子戸風になっている。周囲には小規模の末社がいくつか建ち並ぶ。

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 拝殿に掲げられている扁額。鳥居脇の由緒掲示板には素盞嗚命と櫛稲田姫命が祭神とあるので、「祇園社」あるいは「祇王社」であろうか。

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 丹の彩色豊かな春日造りの本殿。式内社伊古麻山口神社の比定社。山口神社と社号に冠する神社は大和国に顕著に多い。山口神社は朝廷の宮殿造営に関わる御料材伐採において、山口坐神を祀り、山口の水神、また祈雨神として奉祀されていた社。本来の祭神は山口神=大山祇命であったと思うが、江戸時代には牛頭天王社と称していた記録があるというので、近世に至って現在の祭神に変わったと思われる。

 再び国道168号線に戻り、近鉄生駒線の踏切手前の道を東進、次の交差点を南に進むと、平群谷の東側の丘陵、なだらかな傾斜に田畑が広がる地に紀氏神社が鎮座する。周囲には吉備内親王墓、長屋王墓もあって古代史探索ルートとしても楽しめる地。

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 紀氏神社の境内入口の鳥居。式内社平群坐紀氏神社の比定社。

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 鳥居前から平群谷を見る。紀氏神社の辺りは対面の造成住宅地とは対照的に田や畑が広がる地。

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 紀氏神社の本殿は石組みと土塀の瑞垣に囲まれた春日造り。平群谷には有力豪族平群氏の他、紀伊の国造の流れを汲む、紀氏の勢力もあったということ。また平群氏と同じく武内宿禰を祖とする同族であるということが、その理由の一つであるとも。元は平群坐紀氏神社は現在の椿井の春日神社の地に鎮座していたという説がある。
 また拝殿の画像がないのは、撮影を忘れていたから。撮っていたと思ってたんだが。。。

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 紀氏神社とは近鉄生駒線を挟んで、ちょうど真向かいに鎮座する楢本神社。社号碑が社域の東側に建っている。式内社雲甘寺坐楢本神社の比定社。

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 社域の東側の境内入口の鳥居。

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 社域の南側の境内入口の鳥居。鳥居正面にはすぐ田が迫っている。社殿の位置からはこちらが正入口である。

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 正面の鳥居をくぐれば、境内域の北東部にかたよって拝殿が建つ。きれいに清掃された境内に敬意を払い、拝殿に向かう。

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 拝殿に掲げられている社号扁額。

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 丹塗りの社殿群は丹塗りの瑞垣に囲まれて建つ。本殿は春日造り。
 境内由緒書きによれば、元はこの地の東500メートルの地にあった雲甘寺の鎮守社であったが、明治初頭の神仏分離により寺が廃され、明治24年頃現在地に遷座されたという。
 雲甘寺は吉備内親王墓、長屋王墓のための寺であったという説がある。

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 本殿の西隣に二棟、春日社と稲荷社が鎮座する。





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往馬大社・龍田大社と平群郡の式内社1 ~ 往馬大社(往馬坐伊古麻都比古神社) [ポタリング]


 2012年3月1日、そろそろと冬の寒さも峠を越したことを感じ始め、前日の気温予想では穏やかな1日となっていたので、久々にペダルを回してみようと思い立ち、平群郡の式内社を回る計画を立てた。メインの目的は延喜式内の古社で、いまなお大社の風格漂う往馬大社と名神大社で二十二社の一社、龍田大社である。
 平群郡の式内社は今回の郡北部のポタリングと、以前(2011年5月24日)にバイクで郡南部を中心に参拝しており、今回はそれらを併せてアップしてみることにする。

 2012年3月1日の前日の就寝前と、当日朝の出発時間から逆算した起床後、お腹が差し込むように痛くなったため、出発を断念しようと思っていたが、AM9:30頃には快復したため、出発時間が遅くなったが出かけることにした。
 AM10:00頃に出発、第二京阪道高架下の国道1号線から国道163号線という奈良方面に向かう時のいつものコースを辿り、国道168号線を南下して往馬大社を目指す。
 国道168号線は近鉄東生駒駅を過ぎた辺りで分岐する。双方とも国道168号線を名乗る道であるが、往馬大社へは西側の新道へ進む。国道168号線は枚方市域で国道1号線からの分岐点が起点、天の川沿いを南下して奈良県域に入り、更に南下を重ねて南紀の新宮市まで、紀伊半島を南北縦断に貫き、ツーリングルートとしても秀逸なコースである。

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 往馬大社の境内入口の鳥居。式内社の往馬坐伊古麻都比古神社二座に当てられる。往馬大社は近鉄生駒線の菜畑、一分の駅間、蛇行する龍田川を国道168号線が串刺しするように通る地点の西側、生駒山麓に鎮座している。地図を見るとほぼ真西2kmが生駒山頂である。

住所 奈良県生駒市壱分町1527-1 [地図]
駐車場 有り 無料 境内まですぐ
家頁 http://www.ikomataisha.com/

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 鳥居をくぐってすぐ、前庭ともいうべき境内は広く、社殿へと続く階段が左手にある。右側には御旅所である高座。かつては祭日に彦姫二座が神輿でここに降りてきて、この前庭を取り囲むように建つ三棟の建物で祭祀を見物したという。御旅所の場所が境内の真向かいにあることはあっても、社殿のすぐ真下にあるのは珍しいのではないか。

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 その三棟の内の一棟、高座の真向かいに建つ。側に建つ石灯籠には椎の杜と刻まれている。

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 前庭の南西部、鳥居からほぼ正面に社殿へと登る階段。

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 階段の中腹に中門。

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 階段を登り切るとすぐに拝殿。拝殿から祝詞舎を見る。拝殿へあがることができたので、昇殿して参拝する。

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 拝殿から見た祝詞舎。

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 往馬大社の拝殿を北側から。拝殿背後の本殿群は檜皮葺の壮観な春日造り七連棟。本殿群が東面しているのは、かつて山麓から生駒山を仰ぎ拝んだからであろう。

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 拝殿の南側から本殿を見る。
 本殿七棟の中央に式内社二座の一座、伊古麻都比古神を祀り、そのすぐ北側に伊古麻都比賣神を祀る。八幡神関係の五座は北から、葛城高額姫命(神功皇后母)、足仲津比古命(仲哀天皇)、気長足比賣命(神功皇后)、誉田別命(応神天皇)、息長宿禰王命(神功皇后父)。
 創建については不詳だが、「日本総国風土記」に、雄略天皇3(458)年、当社に関する記述があるという。この年代の記述はにわかに信じることは出来ないが、往古より生駒山を御神体山とした、古い形態の神社であったことは想像に難くないと思う。延喜式において大社に列し、月次新嘗に預かった。式内社の二座の他、八幡神関係の五座は鎌倉時代、八幡信仰の興隆に伴って合祀されたという。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より往馬坐伊古麻都比古神社の項。
奈良県生駒市一分。旧県社。生駒谷17郷の氏神で、往馬彦往馬姫を祀る。ほかに気長帯比売命・帯中日子尊・誉田別尊・葛城高額比売命・息長宿禰王尊を祭神とする。往古、往馬大明神と称し、往馬大社ともいう。『大和志』などには神宮寺と称するもの11坊があったという。
 社記によれば、雄略天皇3年5月神田を奉り、天武天皇の時、悪疫流行し牛馬多く死んだので勅使を遣わして官幣を奉り白馬節会を行った。天平2(730)年神戸稲租230余束を祭料に充てられ(『東大寺正倉蹉文書』)、大同元(806)年神封三戸寄進(『新抄格勅符抄』)。貞観元(859)年往馬坐往馬都比古神に従五位下(『三代実録』)『延喜式』に二座並びに大社、祈年・月次・新嘗・案上官幣、一座に祈雨の幣に預かる。『北山抄』には、大嘗祭に膽駒社の神部をして火鍛木を奉らせる、とある。卜部氏はこの神を祀って亀と火燧木神といった。例祭10月11日。大たいまつによる火祭りがある。


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 今回の目的のひとつ、往馬坐伊古麻都比古神社の御朱印。


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