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往馬大社・龍田大社と平群郡の式内社5 ~ 龍田神社、神岳神社、久度神社 [ポタリング]



 猪上神社の前に訪れた龍田神社は国道25号線の一本北側を東西に延びる道沿いに鎮座。この道は奈良街道(大阪街道)で、龍田は伊勢や当麻寺へと分岐する要衝であり、この地を中心に商業も大いに栄えたという。

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 龍田神社の境内前を東西に走る街道と鳥居。龍田神社は延喜式内社、龍田比古龍田比女神社二座の比定社。

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 奈良街道に面した龍田神社の鳥居。

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 龍田神社の拝殿。コンクリートで作られたもの。龍田社と書かれた扁額が掲げられている。

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 龍田神社の拝殿をもうひとつ。本殿は左右どちら側からも見ることは出来なかった。彦姫二座の社であるので、その配置を見てみたいと思ったが残念。
 式内社の研究によれば、龍田神社の社殿は五棟あり、他に行者堂があるという。第一殿の祭神は天御柱大神、国御柱大神の荒魂を祀る。これは鎌倉時代に龍田坐天御柱國御柱神社(龍田大社)から二柱を迎えて祀ったもの。これ以降、当社が龍田新宮と称するようになり、龍田比古龍田比女神社は旧称となり、その名が消えたという。
 第一殿の西に龍田比古大神、東に龍田比女大神を祀り、第二殿、第三殿となる。この二社が式社である。
 更に龍田比古社の西に瀧祭大神を祀る第四殿、これまでの四棟は横並びに南面して鎮座する。
 第五殿は猿田彦命を祀り、これは龍田比女社の東側で西面に鎮座する。
 また続けて式内社の研究によると、彦姫二座の式内社の場合、徃馬坐伊古麻都比古神社などに見られるように比古神二座となるが、当社は比古比女二座となっていて、これは徃馬坐伊古麻都比古神社は比古神の巫女神で隣接していたのに対し、龍田比古龍田比女神社は別々に独立していたものであったからとの記述がある。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より龍田神社の項。式内社の研究とは異なる縁起が紹介されている。
奈良県生駒郡斑鳩町龍田。
旧県社。厩戸皇子が法隆寺を建立しようとして龍田明神(龍田大社)の神誨を受け、この地に堂塔を建立し、本宮の分霊を勧請し、平群郡神として祀られた。本宮に対して新宮、または新龍田ともいう。法隆寺から当社に別当坊を置き、例祭には30人の僧侶を供し、龍田三十講ともいわれたという。祭神は大社と同。例祭も同じく4月4日。

というように、龍田神社は元は天御柱大神、国御柱大神を祀る神社として創建され、それは法隆寺の鎮守社という位置づけである。式社選定時代までに龍田比古神、龍田比女神の二座を祀る社に変遷したというもの。
 神仏習合の概念が無い中、親仏である厩戸皇子との関連が濃厚な法隆寺の鎮守社というのはどうなのかなと単純に思ってしまうが、どうなんだろうか。

 龍田神社の前に訪れた神岳神社は大和国の西部を北から流れてきた竜田川が大和川に注ぐ地点、標高100mに満たない小山、三室山の中腹に鎮座。神岳神社は元は社殿を持たず、三室山を神体山として崇めてきた神社である。三室山は古来より神南備山であった。式内社神岳神社の比定社。

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 三室山は饅頭状にこんもりした山で斜面には住宅が立ち並ぶ。三室山を南側から登ると神岳神社の社号碑が建ち、神社へと案内してくれる。

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 神岳神社の境内入口。

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 神岳神社の境内入口の鳥居。

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 神岳神社の拝殿。

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 神岳神社の拝殿の背後に鳥居が建ち、一段高い地に拝殿と比べると真新しい感を受ける春日造りの本殿が建つ。
 祭神は須佐之男命で、牛頭天王社と刻まれた元禄13(1700)年銘の石灯籠があり、江戸期までには現在の祭神になっていたようである。

 神岳神社の前に訪れた久度神社は大和川を近鉄生駒線が渡る鉄橋の北東すぐの辺り、北葛城郡王寺町久度に鎮座する。

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 久度神社の境内入口。石灯籠とその脇に式内久度神社と刻まれた社号碑。式内社久度神社の比定社。
 久度は窖(くど、あな)の意があり、竈の神であるといわれている。

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 境内入口からの参道を進むと鳥居が建つ。その向こうに拝殿が見える。

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 鳥居の扁額には「徳維馨」とある。境内由緒書には記載が無くよくわからない。ググってみると維馨周徳という禅宗の画僧が見つかったが、関連があるのかどうかわからない。

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 久度神社の拝殿。

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 拝殿内陣から。本殿前には神門が配され、瑞垣に囲まれて建つ。

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 本殿は右側からかろうじて見ることが出来たが、形式はわからない。
 祭神は久度神、八幡神、住吉神、春日神。
 境内由緒書によれば、二十二社の一社、京都の平野神社第二座の久度神は当社から遷されたものであるといい、元平野とも言われる。
 しかし久度については、物部氏の支族、久努氏の祖神が祀られていたという説や、久度の語源として泥地を「くで」と呼ぶ地域があり、そこからの変移であるという説もある。なるほど当地は大和川が湾曲し、大水の時には氾濫して泥土が溢れる地であると言える。
 久度神は平野神社への遷座後一旦は失われていたようで、現在の久度神は平野神社から遷されてきたもの(昭和43年)である。ということで、創祠時の久度神と現在の久度神とは異なっている可能性もある。

以下、久度神社の境内由緒書から
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一、御鎮座 
 奈良県北葛城郡王寺町久度
一、御祭神
 久度大神 かまどの神・火の元の神
 八幡大神 寿命、幸運の神
 住吉大神 水運交通の神
 春日大神 子孫繁栄の神
御由緒
久度神社は延喜式内の古社で、その創始の年代は古く奈良朝以前のものであり、第50代桓武天皇の延暦2年には特に官社に列せられ、従五位下という神位を賜ったことが続日本紀に載つています。その後毎年朝廷から幣帛を捧げられ官祭に預かつていましたが、延暦13年の平安遷都に際し、久度の神をはじめ平素から信仰のあつかつた二、三の神々を皇居の近くにうつされて、新しく建てられたのが、京都の平野神社であり、その第二座が久度の神であります。
その後約1200年の間当久度神社は八幡大神等をお祀りし、氏神として時により多少の興廃はありましたが、昭和17年橿原神宮の古殿をもらって拝殿・瑞垣・中門等の造営によつて面目を一新し、また昭和43年4月10日には平野神社からはるばる久度の神をお迎えし、44年4月10日本殿造営完工によって基の神御座である久度の社にお祀り出来ましたことは、この古い由緒とともに郷土の誇りであります。




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