SSブログ

肥前国の式内社を中心に巡る3 ~ 玉島神社、與止日女神社 [ツーリング]


 志々伎神社中宮をPM14:00頃出発、来た道をひたすら戻り、平戸口からは国道204号線で佐世保方面へ、佐世保市域の吉井駅あたりから県道54号線、国道498号線、県道326号線で国道202号線に到達、予定では伊万里、多久、小城へ抜けて與止日女神社のつもりであったが、時間的に社務所が閉まっていて御朱印を頂けない可能性と、翌朝に有田の陶山神社から武雄温泉で朝風呂との考えがよぎり、近くの竜門キャンプ場テント泊に切り替えた。

 竜門キャンプ場は竜門ダム湖の最奥にあり、予測どおり時期的にキャンパーは誰もいなかったが、地元の方がキャンプ場前駐車場に車を止めてジョギングしていたりと人の出入りはそこそこ多かった。
 テントはキャンプ場内ではなく、荷物を運ばなくていい管理棟の横に張った。張り終えると、猫がゾロゾロ出没してきたので追い払っていたのだが、ビールなど買い出しに行こうとすると、5匹ほどだろうか、テントの回りをうろつきだし、テントに潜り込もうとしたり、テントに爪を立てるものもいる始末。テントを破られたらかなわんなと都度追い払っていたが、全く効果がない。数十分攻防を繰り返していたが、夜になって何十匹と取り囲まれたら、朝になってテントがボロボロになっていたらなどと考えると、気味が悪くなってきた。
 キャンプ続行するか迷ったが、結局撤退、時間はPM18:00になっていた。テントを畳み終え、宿の不安をなくすために昨日宿泊した唐津の旅館にTELして部屋を確保、再び唐津に向かった。

R0011442_r.jpg
 侵入者を追い出して満足げな猫共。なんだかな~、トホホ。

 翌朝は連泊した唐津の旅館を出発、虹ノ松原を貫く県道347号線を西進、国道323号線を南下して與止日女神社を目指す。途中国道323号線沿いの玉島神社に立ち寄った。

R0011452_r.jpg
 国道323号線で唐津から最初の峠を越える麓の集落という感じの地に玉島神社が鎮座している。境内へは石垣に挟まれた急階段を登る。鳥居に安永2年(1773)銘。鳥居扁額には神功皇后宮とある。到着はAM7:00頃。

R0011449_r.jpg
 玉島神社の拝殿と境内社須賀神社。須賀神社の鳥居扁額には合祀神社とある。境内は広くなく、二の鳥居をくぐると全体を見渡せるほど。

R0011448_r.jpg
 玉島神社の拝殿の背後、一段高い地に本殿。祭神は神功皇后。
 神功皇后が三韓征伐にあたって、出征の前に小川で釣りを行い吉凶を占ったところ、たちまちに魚がかかり、皇后は「めづらし(すばらしい)物だ」と言い、その川岸に皇后の宮を置いたという。その宮が当社の起源であり、釣りをした小川が当社の前を流れる玉島川、釣れた魚は鮎で、この故事により魚偏に占うと表すようになったという。
 また皇后が発した「めづらし物」の「めづら」が佐賀長崎北部海岸域を松浦と呼ぶようになった語源という。

 玉島神社は境内が広くないので5分ほどで参拝、撮影を済ませて、国道323号線を南下して、肥前国一宮、與止日女神社を目指す。
 国道323号線と国道263号線が嘉瀬川を挟んでしばらく併走し、川上橋で合流する地点の少し南に與止日女神社が鎮座する。

R0011485_r.jpg
 與止日女神社は嘉瀬川の右岸、境内域は川上橋を北端に南側に公園、駐車場と連なっている。画像は南端の駐車場入口に建つ鳥居。AM8:00頃到着。

R0011484_r.jpg
 鳥居の脇に猿田彦大神と刻まれた碑。この石碑に祀っているようである。

R0011456_r.jpg
 駐車場を出て、境内の手前の公園に建つ鳥居。

R0011457_r.jpg
 境内手前の階段脇にある庚申社と刻まれた碑。先の猿田彦大神碑との関連であろう。

R0011465_r.jpg
 與止日女神社の拝殿、背後の本殿は透塀で囲まれる。

R0011464_r.jpg
 與止日女神社の拝殿。

R0011463_r.jpg
 拝殿内陣。

R0011478_r.jpg
 與止日女神社の本殿。祭神は與止日女命。一説に豊玉姫、あるいは神功皇后の妹君であるともいう。 「肥前国風土記」には欽明朝25年に与止姫神が鎮座したとの記録がある。
 延喜式に與止日女神社との記載がある式内社で、三代実録にも貞観2年(860)に従五位上昇従の記録が残る古社である。
 嘉瀬川は川上川とも呼ばれ、中世には河上社とも称せられた。 嘉応2年(1170)の記録には、境内に本殿がなく、佐賀平野の上流嘉瀬川を神体とした神社だったとも言われる。
 応保2年(1162)の文書を所見にして当社が一宮であるとの記載が残っているが、これは千栗八幡宮との一宮争いにおける改竄であるとされる。千栗八幡宮は宇佐八幡宮の五所別宮の一社であるが、中世においては一宮争いがあったとの痕跡はなく、慶長19年(1614)に後陽成天皇が当社に一宮と認めるような勅額を下して以降に争いに発展したという。千栗八幡宮には建暦3年(1213)に一宮を称していたという記録があり、中世においては一宮は千栗八幡宮が称していたと思われ、一宮争いは近世以降のものである説が有力である。

R0011468_r.jpg
 本殿背後の石祠群。公式頁によれば「若宮社(仁徳天皇)、百代宮(豊玉姫命和魂神)、代永宮(同荒魂神)、香椎宮、竃門宮、寶満宮、王子宮、淀姫社、住吉社、志賀宮、加茂宮、春日宮、稲荷宮、阿蘇宮、山王宮、乙宮社、高良宮」

R0011481_r.jpg
 境内の川側に金精さんと呼ばれる陽根型の石。

R0011473_r.jpg
 境内を西門から出ると、河上山実相院の山門。当社関連文書を多く伝来している。神宮寺である河上山神通寺の十二子院の一つである。

R0011479_r.jpg
 境内から嘉瀬川を見る。時期的に鯉のぼりを両岸にかけて渡らせていた。
 この時点でAM8:30頃。ゆっくりまわったが、境内はそんなに広くなく、30分ほどで終了。社務所が開く気配もなく、千栗八幡宮、荒穂神社に行ってから、再度戻ってこようかと考えたが、南へ進むことを優先することにし、御朱印は次回に持ち越しになった。前日からの行動がちぐはぐな感じになり、朝から少しテンションが下がったが、南下に参拝旅好転の期待をかけることにした。
 


nice!(23)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

肥前国の式内社を中心に巡る2 ~ 志々伎神社(沖都宮・辺都宮・上宮・中宮) [ツーリング]


 
 田島神社をAM9:30頃出発、国道204号線でひたすら平戸を目指す。途中伊万里市街をバイパスする伊万里湾大橋を渡り、平戸口から平戸大橋を渡り、国道383号線を南下し、更に県道19号線で志々伎神社の鎮座する平戸島南西端を目指す。

R0011385_r.jpg
 県道19号線を進んでいると特徴的な山が見えてくる。おそらく志々伎山であろうと撮影したもので、正解であった。
 志々伎神社は延喜式内社で、三代実録においても貞観2年(860)従五位上昇授の記事がある古社である。「肥前国風土記」に志式嶋とあり、社名の由来とされる。祭神は十城別命、景行天皇の孫、日本武尊の第六王子で神功皇后の三韓征伐に従軍し、凱旋後、この地に留まり守護の任を果たしたという。現在は上宮・中宮・辺都宮・沖都宮の四社を持って志々伎神社を成しており、祭祀の中心は中宮であるという。以上のように4社構成となっているので、一番西側、宮の浦の沖都宮から参拝することにした。

R0011388_r.jpg
 宮の浦漁港の港湾内の小島に沖都宮が鎮座。小島へは防波堤で渡ることが出来る。バイクならより近くまで行くことが出来る。

R0011399_r.jpg
 沖都宮の全景。

R0011394_r.jpg
 鳥居は港側に向いて建つものもあり、今は防波堤で陸続きになっているが、かつて船で渡っていた頃の正参道の鳥居なのだろう。

R0011392_r.jpg
 沖都宮拝殿前鳥居の扁額。

R0011393_r.jpg
 沖都宮の拝殿。

R0011397_r.jpg
 沖都宮の本殿。

R0011402_r.jpg
 宮の浦漁港の一角、辺都宮への参道付近に柵で囲まれた石灯籠が建っている。式内社志自伎神社跡の碑があり、地理的に辺都宮の元社地であろうか。

R0011404_r.jpg
 宮の浦港湾の西の地点に辺都宮への参道がある。

R0011405_r.jpg
 辺都宮境内への鳥居。

R0011406_r.jpg
 辺都宮の鳥居扁額。

R0011408_r.jpg
 鳥居をくぐると階段、すぐに拝殿。

R0011409_r.jpg
 辺都宮の拝殿。簡素な倉庫のような造り。

R0011411_r.jpg
 辺都宮の本殿。元は背後のひもろぎの山を祀ったものであるという説がある。

 宮の浦漁港を後にし、県道19号線を戻る。志々伎山中腹に鎮座する中宮へは県道に案内板があるのでそれに従って進む。

R0011440_r.jpg
  中宮参道。隣接して阿弥陀寺があるが神宮寺ではない。志々伎山も見える。

R0011415_r.jpg
 中宮参道入口の鳥居。ここから中宮までは約500mの階段参道を歩く。

R0011418_r.jpg
 中宮近くの志々伎山登山道入口。ここまでは車道が通じており、すぐ横に駐車場もある。

R0011420_r.jpg
 上宮への道。右に見える道は駐車場から来た道。中宮はこの道を道なりに進んだ先にある。

R0011421_r.jpg
 上宮参道への分岐からすぐの地点に中宮跡地がある。昭和36年頃までは中宮鎮座地で、古中宮と地元では呼ばれているとのこと。現在の中宮は神宮寺であった円満寺が明治期に廃寺となり、その後に造営されたものである。

R0011423_r.jpg
 上宮参道の石灯籠が置かれた結界点。

R0011424_r.jpg
 上宮参道途中のロープのかけられた岩場。二ヵ所のロープ岩場に少しビビって、この先の難行を想像したのと、今日中に與止日女神社、千栗八幡宮を参拝しておきたい気持ちが混じって、ここで上宮を断念した。この後は結局、與止日女神社にも到着することが出来ず中途半端な一日になった。非常に後悔している。

R0011425_r.jpg
 中腹の駐車場から再び中宮参道に合流し、少し下った場所に木の鳥居が建つ。脇に建つ享保5年銘の石灯籠一対。

R0011428_r.jpg
 中宮境内入口の鳥居。

R0011438_r.jpg
 中宮の拝殿。

R0011434_r.jpg
 中宮拝殿に掲げられた社号扁額。境内入口の鳥居扁額と共に「志自伎神社」となっている。

R0011436_r.jpg
 中宮の本殿。拝殿本殿共に4社の中では一番整備され、かつ規模も大きい。山頂の上宮は石祠である。
 祭神は十城別王、相殿に七郎氏広、鴨一隼戸を祀る。相殿二柱は三韓征伐において十城別命に従って従軍した武将とされる。
 先の田島神社と共に遣唐使船の出港地であったが故に式内社となったとも言われている。当社は南路コースにあり、もしかしたら空海もこの地を訪れたのだろうかなどと考えながら、志々伎神社を後にした。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より志々伎神社の項。
 長崎県平戸市野子町。旧県社。式内社。
 祭神は十城別命・鴨一隼戸命・七郎氏広。西海国立公園平戸島の南の鈎状に突き出した半島部に志々伎山(347メートル)があり、その中腹に鎮座し、山上に上都宮があり、山麓が海にせまり海食崖が発達した景勝地に辺都宮、沖の宮がある。『肥前国風土記』にすでに「志式嶋」とあり、『三代実録』貞観2年(860)にも「志々岐神」に従五位上を授かる記事がみえ、『延喜式』にも松浦郡にその名があり、「下松浦明神」とも称された古社である。
 社記には十城別命は仲哀天皇の皇弟であり、『神明帳』頭注には「志志伎神社は稚武王弟、十城別命下松浦明神と号す」とある。弘仁2年(811)神体木像を安鎮し、志志岐神社と改めたのだという。
 例祭1月9日、11日。県無形文化財として平戸神楽が指定を受けている。



nice!(26)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

肥前国の式内社を中心に巡る1 ~ 唐津神社、田島神社 [ツーリング]


 九州2日目は降水確率を考慮して、午後からの予報が比較的良かった福岡佐賀方面に変更し、高良大社(筑後国一の宮 高良大社を巡る)で時間切れとなった。久留米で宿泊し、荒穂神社、千栗八幡宮、與止日女神社と回ることも考えたが、地理的に難しい平戸島南端の志々伎神社を今回の参拝旅で埋めておきたい気持ちが強かったので、できるだけ近くに歩を進めておこうと田島神社のある加部島に向かうことにした。
 加部島には北端にキャンプ場があって、九州に来るたびにテントを張っている。「土地勘」があって、お気に入りでもある場所。安心感を得るために今回も向かったのだが、唐津市街地に到達する頃にはあたりはうす暗くなってしまい断念。よって唐津市街地の旅館で宿泊した。

 その翌日2012年5月16日は朝から好天で、式内社ではないが、唐津くんちで著名な唐津神社で朝の参拝を済ませ、その後田島神社、志々伎神社へ向かうことにした。

R0011332_r.jpg
 唐津神社の鳥居。白塗り背高で印象深い。唐津市役所の北側に鎮座。

R0011311_r.jpg
 境内は一段高くなっており、階段を上がった先に鳥居。手前に縣社唐津神社と刻まれた社号標が建つ。

R0011301_r.jpg
 境内前の鳥居に来た時から、朝7時過ぎにも関わらず、人の出入りが多いなと思っていたのだが、参拝しているとますます人が増えて、境内の清掃が始まった。市役所が近いので役場の方ですかと聞くと、近くの信用金庫の職員さんだという。朝早くからご苦労様です。

R0011325_r.jpg
 唐津神社の拝殿。境内社が多く、人の少ないポイントを選びながら一通り撮影をして出発しようとしていると清掃が終わり、信金の職員さんも三々五々職場に向かっていき、境内は無人になったので、それならと撮影し直したもの。

R0011291_r.jpg
 唐津神社の本殿。祭神は一の宮に底筒男命、中筒男命、表筒男命の住吉三神、二の宮に神田宗次、相殿に水波能女神となっている。
 境内由緒書によれば三韓征伐から帰国した神功皇后が、松浦の海浜に宝鏡を縣けて住吉三神を祀った。時を経て住吉三神を祀った所定かではなくなったが、天平勝宝7年(755)に、時の領主、神田宗次が神夢により海浜で宝鏡を得たので、朝廷に奏聞し唐津大明神の称号を賜ったという。
 松浦の海浜がどこかはわからないが、その場所から漂流した宝鏡をこの地で発見し、神功皇后が祀った宝鏡であるとして祀ったことが起源とされている。

 唐津神社で少し時間を取ってしまったが、唐津市域旧呼子町を目指して北上、呼子大橋を渡り加部島に向かう。

R0011333_r.jpg
 加部島の東海岸線を走っていると、山に延びる道との分岐点に鳥居が建っていた。地図で見てみると、鳥居側の道も田島神社境内入口前ににつながっている道である。

R0011337_r.jpg
 更に海岸線を北上すると、バス停加部島渡船場前の前に鳥居。田島神社は鳥居裏手の山の向こう、北側にある。後に田島神社の対岸で撮影している時に地元の方に聞いてみると、1989年に呼子大橋が開通するまでは呼子港からの船着場であり、バス停の名前がそのまま残っているとのこと。

R0011338_r.jpg
 田島神社の境内入口。社号標が建つ。ここにはAM8:40頃に到着。

R0011373_r.jpg
 境内に入って最初の鳥居。田島神社から望む湾は漁港になっている。

R0011345_r.jpg
 社殿への登り口は二箇所ある。

R0011343_r.jpg
 登り口の二箇所のうち境内入口に近い側に建つ鳥居は頼光鳥居と呼ばれる。源頼光が肥前守として当国に赴いた際に寄進したものとされる。年号銘はなかったと思う(画像がなかった)。

R0011372_r.jpg
 頼光鳥居の鳥居扁額。田島宮の文字は三蹟藤原佐理の筆によるという。

R0011340_r.jpg
 楼門への階段と鳥居。

R0011361_r.jpg
 楼門と相対して港湾に向って建つ鳥居。鳥居をくぐると船着き場。

R0011351_r.jpg
 楼門を内側から。左側の門は頼光鳥居からの入口。

R0011363_r.jpg
 楼門をくぐると正面に拝殿への階段。

R0011370_r.jpg
 田島神社の拝殿。

R0011359_r.jpg
 田島神社の本殿。社殿は西北に向かって建ち、それは異国降伏のためであると社伝はいう。延喜式に「田嶋坐神社」と記載され、肥前国唯一の名神大社である。
 田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊のいわゆる宗像三女神を祀り、大山祇神、稚武王尊を配祀する。古来より宗像三女神を祀っているようであるが、延喜式では一座となっている。
 社名の田嶋坐神社は、加部島が田嶋であったと単純に考えることができるが、宗像神社辺津宮が宗像市田島に鎮座していることから、宗像神社からの勧請であったとする説もあるようである。
 「式内社の研究」では付近の島には田がないが、当社北側に田のある集落があり、加部島を田島と呼んでいたと推測している。
 古来より壱岐、対馬航路の要衝であり、海上交通の国家的祭祀が執り行われた場所とされる沖の島(宗像神社沖津宮)とそれを取り囲むように玄界灘の両端に鎮座する宗像神社と当社、更に壱岐、対馬を加えた位置関係はとても興味深い。両社においては根を同じくする祭祀を執り行っていたと考えてみたくなる。
 山口県角島あたりも沖の島サークルに加えたいが、土井が浜では無理があるかな、というのは余談の雑談。

R0011349_r.jpg
 境内社の佐與姫神社。佐用姫伝説の松浦佐用姫を祀る。佐用姫が夫の無事を息絶えるまで祈り続け、そのまま石となったと言われる神石望夫石が神体となっている。

R0011352_r.jpg
 佐與姫神社の裏手に境内社の御崎神社。級長津彦神、級長津姫神、猿田彦神を祀る。風神と天孫先導の神との組み合わせは、船舶安全の社である。

R0011355_r.jpg
 御崎神社からさらに進む道があり、進んでいくと太閤祈念石がある。文禄の役の折、大願成就にはこの岩を二つに割るべしとの神託を得、秀吉が槍を突いてふたつに割ったという伝承を持つ。

R0011378_r.jpg
 田島神社を対岸から。港湾に面した鳥居から楼門、拝殿、本殿。対岸から見るのは初めてで、風格あるとてもいい神社である。撮影している時に地元の方に話しを聞くことが出来た。
 鳥居の船着き場は祭りの時に船渡御に使用されるのかと聞いてみると、今は神社から海に出ることはないといい、自分が生まれる前にはあったらしいという。「式内社の研究」では七月の夏越祭が盛んであるが、百手祭は明治期に廃されたとある。ネットのソースでは田島神社の夏越祭には船は出ていない。もしかすると百手祭では鳥居の船着き場から船渡御が執り行われていたのかもしれない。

神道事典以下、神道事典(弘文堂)より田島神社の項。
佐賀県唐津市呼子町加部島3956
<祭神>田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊、大山祇神、稚武王尊
<例祭日>9月16日
<神事>呼子町祭、夏越祭
<指定文化財>大刀一振(銘備中国住人吉次、重文)
<由緒>式内社。社伝によれば、天平年間(729-49)この地に稚武王を配祀し、のちに朝廷より大伴古麻呂が派遣され田島大明神の神号が贈られたという。大同元年(806)に神封十六戸を寄せた記録があり、当時すでに太宰府の管轄地域の主要神社であった。大陸との交通の要路に位置し、北西を向く社殿は異国降伏のためであるとされる。『延喜式』では名神大社に列す。文禄2年(1593)には豊臣秀吉が社領を寄進している。
<旧社格>国幣中社(明治4年)

41-tajimajinjya.jpg
 田島神社の御朱印です。桜の印が逆なのは気のせいでしょうか。。。


nice!(28)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

ニッポン御朱印の旅0017 大鳥神社 2010-04-07 [御朱印の旅]



27-otorijinjya.jpg

鎮座地 大阪府堺市西区鳳北町1-1-2 [地図]
祭神 日本武尊、大鳥連祖神
社格等 式内社(名神大)、官幣大社、別表神社、和泉国一宮
拝観料 不要
駐車場 有り(無料)

 参拝は4月7日、近隣地域の一の宮を埋めておきたいなと思い、大鳥神社に向かった。正式名称が大鳥神社であるが、一般に大鳥大社としての名が通っている。
 前日までは暖かい日が続いていたが、当日はかなり寒く、自転車に乗っていても体が温まるどころか、冷えていく一方であった。



 大鳥神社は摂河泉三国の境、堺市に鎮座し、日本武尊を主祭神とし、大鳥連祖神を配祀する。大鳥連は中臣氏と同じ天児屋命を祖神としており、大鳥連祖神は天児屋命とされる。
 景行天皇の命により熊襲討伐を終えた日本武尊は続けて東夷征討に向かう。その帰途、近江・美濃国境の伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野(三重県亀山市付近)の地で亡くなった。遺体は能褒野陵に葬られたが、その陵墓から大和の方角に向けて白鳥となって飛んでいき、最後に留まった和泉国の当地に社を建立したのが当社の起源とされている。
 また元々は大鳥連の祖神を祀る社であったのを、天照大神、日本武尊と祭神の変遷があったという説もある。
こういった点が加味されたのか、明治29年内務省の通牒により、大鳥連祖神に祭神が変更された。神社側は反発し、日本武尊を主祭神に戻すよう求めていたが、昭和36年に至って日本武尊を増祀することが認められた。それ以降、現在の祭神となっている。
 和泉国一の宮で、鎌倉時代後期の文書、「大鳥社禰宜大鳥頼季申状案」に「和泉国一宮大鳥社」の記録が残る。

P4070028.JPG
 大鳥神社の境内入口の鳥居。鳥居前を南北に通っている道は熊野街道。鳥居を背にまっすぐ進むと浜寺公園。

P4070019.JPG
 大鳥神社拝殿、風もあってとても肌寒かった。空も雲に覆われ、どんより薄暗い日だった。

P4070014.JPG
 大鳥神社本殿は透塀に囲まれ神門が配されている。

P4070018_r.jpg
 神門と本殿の屋根部分。本殿は大鳥造と称され、大社造と似ているが、妻入りの部分が中央にくる構造。

P4070008_r.jpg
 境内社に式内社、大鳥美波比神社が鎮座する。大鳥五社明神の一社。明治12年(1879)に境内に遷座。明治42年(1909)に式内社押別神社が合祀されている。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より大鳥神社の項。
 大阪府堺市鳳北町。旧官幣大社(現、別表神社)。
 祭神は明治4年(1871)宮社列格の際、大鳥連祖神一柱とせられたが、昭和32年主祭神を日本武尊として二柱に増祀された。
 日本武尊は社伝によれば束夷征討の帰途俄に病を蒙り、伊勢国能褒野に於て薨去され白鳥と化し当地にとどまったという。大鳥連は『新撰姓氏録』に和泉国神別で大中臣朝臣と同祖、天児屋命の後なりとある。
 『新抄格勅符抄』によれぱ大同元年(806)神封二戸が寄せられたとみえる。神階は『三代実録』貞観元年(861)に従三位昇叙がみえ、その後『和泉国神階帳』に正一位とある。
 延喜の制では名神大社に列し祈年・月次・新嘗の官幣並びに祈雨神祭八五座の一としてたびたび臨時奉幣に預かり和泉国一の宮として朝野の崇敬をうける。平清盛・重盛父子が熊野参詣の途次、当社に祈願し和歌及び神馬を奉納していることをはじめ織田・豊臣・徳川各氏も社領の寄進や社殿の造営を行っている。
 本殿は大鳥造と称し、大社造から進展した形式といわれる。天正年間(1573-92)の兵乱により社殿炎上し、慶長7年(1602)豊臣秀頼により再興せられ、寛文2年(1662)徳川家綱の命により堺町奉行石河土佐守利政をして再建され、元禄14年(1701)徳川綱吉は柳沢保明をして修営せしめた。現社殿は明治38年(1905)に雷火のため炎上し、同42年に再建されたもの。境内は約五万平方メートルで千種の森とも呼ばれ6月中旬の花菖蒲は有名である。
 神宮寺であった神鳳寺は行基の開基と伝え、真政円忍律師の中興。摂社の大鳥美波比神社・大鳥北浜神社・大鳥浜神社・大鳥井瀬神社は式内社で、本社と合わせて大鳥五社明神と称せられた。
 主な祭典は例祭が8月13日のほか3月15日=祭神増祀記念祭、4月13日=花摘祭、7月30、31日=夏祭などである。




nice!(27)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

ニッポン御朱印の旅0016 四條畷神社 2010-03-20 [御朱印の旅]



27-shijonawatejinjya.jpg

鎮座地 大阪府四條畷市南野2丁目18番1号 [地図]
祭神 楠木正行 他24柱
社格等 別格官幣社、別表神社、建武中興十五社
拝観料 不要
駐車場 有り(無料)

 春の好天の日、近隣の式内社を回ってみようと考えて選んだのが四條畷周辺。四條畷で真っ先に連想するのが四條畷合戦ということで、式内社ではないが、建武中興十五社の四條畷神社を中心に自転車で向かった日。近場ということで出発は10:00頃と遅かった。



 四條畷神社は楠正成の嫡男、楠正行を主祭神とし、四條畷合戦で戦死した一族、24柱を配祀する。
 楠正行は正成の死後、南朝を支える有力武将として各地を転戦するが、四條畷合戦において足利将軍家の執事職、高師直と交戦し、北朝方の高師直が圧勝、楠正行は弟正時と差し違えて自害を果たした。四條畷合戦に際しては、吉野の後村上天皇に決死の覚悟を打ち明けて別れを告げ、後醍醐帝の御陵を拝し、如意輪堂に辞世の句を記して出陣したという。
 明治の初頭に入って、地元の神職、住民が神社創建を願い出た結果、明治22年6月勅許が降り、翌23年4月鎮座祭が行われ、別格官幣社として創建に至った。

sjn06.jpg
 JR片町線四条畷駅の北西近くに楠正行公御墓所があり、まずはそこへ立ち寄った。南北を走る河内街道(府道162号線)に面しており、道幅の狭い割りに交通量が多く、また東向きに四條畷神社へ向かう参道は商店街となっているため人通りも多い。そのため車は常に停滞を余儀なくされている。
 余談だが、四條畷市の條は条の旧字体であるため、駅や道路標識などでは「四条畷」と表記されている。また四条畷駅は大東市域に立地している。
 人通りは多いが、墓所へ足を運ぶ人はなく、通り抜け出来ないため生活道路にもなっていない。落ち着いて墓参できる。

sjn01.jpg
 墓所から参道を東に進み東高野街道を越える。その東高野街道に面して一の鳥居が建てられている。

P3200039_r.jpg
 四條畷神社への境内入口。墓所から約1km、一の鳥居から約600m。

P3200036_r.jpg
 飯盛山北西山麓に広がる境内はとても広い。

P3200017_r.jpg
 四條畷神社拝殿、左側は御妣神社、手前の像は桜井の別れ、父から子へ短刀を手渡すワンシーン。本殿は見通せなかったのか、画像がない。この時期の画像を見返してみると、本殿を撮影していない神社が多い。ここにも再訪して確認してみようと思っている。

P3200035_r.jpg
 四條畷神社から大阪平野を眺む。中央の白いラインは第二京阪道路。参拝当日が開通の日であった。

神社辞典以下、神社辞典(東京堂書店)より四條畷神社の項。
 大阪府四条畷市南野。旧別格官幣社(現、別表神社)。
 当社は楠正行卿を主祭神とし、楠正時以下殉難戦役の将士27柱を祀っている。鎮座地は、正平3年(1348)1月5日、正行卿が殉節された由縁地である。
 明治維新に際し、当地の平田神社神職三牧文吾等が、神社創建を願出、その後もしばしば請願がなされていたが、時至り、明治22年(1889)大阪府知事西村捨三より神社創立及び社号宜下の上申が出された結果、同年6月勅許が降り、翌23年4月鎮斎されることとなった。
 例祭は2月12日のほか、4月5日、10月5日にそれぞれ春秋の大祭が斎行される。社宝に刀剣(銘大和包永)あり重文に指定されている。




nice!(28)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。